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xxxy 07

 入院中のおれの病室には、若手の医師を中心にして、次第に人が集まるようになってきた。例の新人君に他の医師を連れてくるようにと、あまり期待せずに言ってみたところ、本当に先輩医師を連れてきてくれたのだ。意外と律儀なところがあるじゃないかと、おれは新人君のことをちょっとだけ見直してやった。
 ただ、やってくるメンバーを見ると、新人君とは大差ないような本当に若手の医師ばかり。最初の新人君を含めて、3、4人の医師がひっきりなしでおれの部屋にやってくる。ひょっとして、医局では彼ら若手医師は、口に出せないような酷い目に遭っていて、緊急避難的におれの病室に逃げてくるのではないだろうかと思いたくなる。おれの病室は、特に夕方近くの時間になると、若手医師で溢れかえる、とまでは言わないが、椅子が足りなくなるくらいは集まってくる。最近は、誰が持ち込んだのか、折りたたみ式のスチール椅子がおれの病室の壁にはいくつも立てかけてあるようになった。
「枯れ木も山の賑わい、という奴ですねえ」
 新人君は、相変わらず嬉しそうに言う。おれに向かってこっそり言うのではなくて、「枯れ木」の人たちに向かってそう言うのだから、やっぱりこいつは無神経なのだろう。いや、単に物を知らないだけかも。
 新人君は「今度は誰を呼んでみましょうかねえ」なんて言っている。まだまだこの部屋を賑やかにしたいらしい。
「折角来てくれてもお茶も出せないので、次は、メイドさんでも呼んでやってください」
 まさか、そんなことはないだろうが、言うだけ言ってみた。世の中、言うだけならタダのことは、何でも言ってみるべきだと思う。当然、メイドさんは来なかったが、医師たちがペットボルトのお茶と紙コップを持参するようになった。
 若手の医師たちがおれの病室に何をしに来るかというと、一言で言うと、愚痴をこぼしに来るのだ。多くは、病院や先輩医師への不満。夜勤が多くてきついなどという勤務体系への不平。中には、自分のような者は医者には向いていないんじゃないかと、おれに人生相談を依頼するものまで現れた。恋人との不和だとか、近所の住民とのトラブルだとかという相談ならまだしも、医師としての適性について、患者に相談している時点でアウトだと思うのだが、それを言うとますます落ち込んで、どんな医療ミスをされるかわからないので「そんなことはない、君は立派な医者になれる」と勇気付けておいた。
 そんなわけで、おれは、日毎集まってくる若手の医師たちに、おれの経済的な窮状と、おれがもうすっかり回復していることをアピールすることに努めた。正直、もうちょっと発言力のありそうな中堅の医師が来てくれるのを期待していたのだが、贅沢は言うまい。若手とは言え、医者は医者だ。持っている権限も、全くのゼロというわけでもないだろう。
 おれのアピールが効を奏したのかどうかはわからないが、数日後には、おれは散歩を許される身となった。と言っても、おれが入院しているフロア内に限られるのだが。最初の数日は、看護師付き添いの下、1日2度の散歩を行なった。ここで特に大きな問題を起こさなかったおれは、ついに、念願のひとりでトイレに行く権利を獲得した。
 何をその程度のことで大袈裟な、と思うかもしれないが、おれに取ってこれは大変なことなのだ。何しろ、おれには、プライベートというものが一切なかった。多くの時間は医師や看護師に監視されているし、勝手に出歩くこともできない。かろうじて、布団の中の空間がプライベートと呼べるのだが、それも、先日の新人君に引っ剥がされたように、完全とは言いがたい。これでは、おれには何の自由もないのと同じだ。
 そんなおれが、トイレ限定とは言え自由に行ける権利。個室というプライベート空間に籠もる権利を得たのだ。この個室の中であれば、おれは自由に行動できる。
 ――と言っても、トイレの個室の中だけの話。大したことはできない。早い話が、双葉の入浴中など、おれの下半身が危なくなりそうだったら、トイレに逃げ込めばいい、ということだ。場合によっては、ここで抜いてしまうという手も使える。まあ、毎回毎回決まった時間になるとトイレの個室に消えるのでは怪しすぎるので、これらはあくまで緊急手段にすべきだが、それでも、そういう手段を持っているか持っていないかという違いは大きい。これで、おれが以前のように、鎮静剤を打たれる程の極度の興奮状態になることは(より正確に言えば、極度の興奮状態になったところを見つかることは)、ほとんどなくなったと言っていいだろう。
 あとは、順調な回復振りを少しでもアピールして、退院の話が出るように持って行くだけだった。

 双葉のおれが退院してから、1週間以上が経過した。
 その間、園子さんは基本的に、ずっとおれに付き添ってくれている。園子さんがおれの傍を離れるのは、トイレ、シャワーといった物理的におれの傍についているのが難しい場所にいるとき、おれが夫と一緒にいるとき、そして、病院での診察中。このぐらいだった。おれが寝ているとき――実際には、それが大半の時間を占めるのだが――も、同様のようだ。文字通り、園子さんは、おれにぴったりと付き添ってくれている。
 園子さんがいてくれる予定の2ヶ月間、この状態がずっと続くのかというと、そんなことはない。実は、園子さんにも休みの日がある。当然だ。大体、2週間に2日ぐらいの割合で、園子さんは休みを取ることになっていた。
 では、休みの間、おれは、どうなるのか?
 代わりの看護師が来るのかと思っていたら、違った。その間、おれは一時的に元の病院に入院するのだそうだ。いつものように園子さんがおれを診察のために病院へ連れて行き、おれはそのまま入院。園子さんは休暇に入る。2日後、休暇を終えた園子さんがおれを迎えに来て、家に連れて帰るのだそうだ。基本的に、園子さんの休暇(つまりは、おれの入院だ)は、夫が出張で家にいない日が選ばれる。これなら、夫から見たときに、折角家に帰ってもおれがいない、ということにはならないし、おれが入院したからと言って、夫がわざわざ病院まで様子を見に来る必要もない。
 園子さんの最初の休暇は、退院から10日ばかり経過した木曜日からということになった。元々のおれの方は、この前日にひとりでトイレに行く権利を獲得したところだった。
「それじゃ、双葉さん、おとなしくしているんですよ」
 おとなしくというのはどういうことだろうか、と首をひねるおれを残して、園子さんは去っていった。このあと、夕方の飛行機で札幌の自宅へと戻るのだそうだ。
 残されたおれは、ちょっとばかり解放的な気分になった。園子さんと一緒にいるのは楽しいし、女初心者のおれに取って、園子さんは、これ以上ない先生だが、どんなにいい先生でも、いなくなれば生徒は解放的な気分になるものだ。
 女修行も今日はお休み。この2日間は、だらけきってやろう。
 入浴は家を出る前に済ませてきたので、今日の予定は夕食を取ったら寝るだけだ。
 今回、おれが入院した部屋は、以前と同じ部屋。双葉の体のおれに取っては、自宅よりも我が家に近いような部屋だった。
「それじゃ、何かあったらベルで呼んでください」
 病院の看護師が、そう言って出て行った。
 特別病室にはおれ1人が残された。
 時計を見ると、まだ3時前。夕食までは1時間以上あるし、診察が終わったばかりだから、検診もない。まるっきりの自由時間。双葉の体を動かすようになってからは、こんなことは初めてだ。
 病室と言っても、ちょっとしたホテルの一室に病院のベッドが置いてあるといった造りだから、部屋の中にトイレもあれば、バスルームもある。
 おれは、バスルームに入ると、洗面台の前に座った。目の前の鏡に春物のシャツに薄いカーディガンを羽織ったおれが映っている。
 この場所は、おれがはじめて双葉として起き出し、自慰に耽り、絶頂に達した場所だ。このとき、双葉の脳は覚醒したのだから、この場所からおれと双葉の奇妙な二重生活は始まったと言ってもいい。あのときのおれは覚醒したばかりで、まだ2つの体をうまく動かすことはできなかった。ベッドのおれが起き上がったときに、双葉のおれも同じ動作をしてしまい、この洗面台に頭を思い切りぶつけてしまったことを思い出す。あのときの痛みが正確に甦ってきて、おれは、思わず頭を押さえた。
(いかんいかん)
 どうせ思い出すのなら、そんな痛い記憶ではなくて、あの激しかったオナニーの様子でも思い出した方がいいのだが、考えてみれば、あのオナニーは、双葉の脳が覚醒する直前だったから、ちゃんとした記憶がない。
(誰もいないんだし、始めちゃうか?)
 おれは、一旦バスルームを出て、病室のドアを開けて顔だけ出して外の廊下の様子をこそこそと窺がった。
「どうかしましたか?」
 いきなり、廊下を歩いていた看護師に声をかけられた。
「な、なんでもありません」
 おれは、慌ててドアを閉めた。特別病棟の廊下には、結構な数の看護師がいた。悪いことをしようと思っていると、みんな、おれを監視しているように見えてくるから不思議だ。
 おれは、ふーっと息を吐いた。病室もバスルームも、緊急のときのために鍵をつけていないので、いつ誰が入ってくるかわからない。おれは、バスルームでのオナニーは断念することにした。
 仕方がない。取りあえず、着替えることにする。ただ着替えるのも芸がないので、鏡の前でポーズを取りながら着替えるとしよう。というよりも、いろんなセクシーポーズを取りながら、1枚ずつ服を脱いでいくのもいいかも。これなら、急に看護師が入ってきても、すまし顔でいれば、着替え中でした、で済む。
「ちょっと、トイレ行ってきます」
 一般病棟のおれは、念のため、獲得したばかりの権利を行使して、トイレの個室へ避難する。いつかみたいに双葉の裸に興奮しすぎても、ばれないようにするためだ。このときも、おれの部屋には若手の医師が2人ばかり来ていたが、もはや、病室の主たるおれにはほとんど興味がないのか、病院の上層部の人事について、持参した烏龍茶を飲みながら話し込んでいるところだった。
 元々のおれがトイレの個室に籠もるのを確認して、双葉のおれは鏡の前に立つ。今日のおれは、上はいつものようにボタンで前を留めるシャツだったが、下は裾がふんわりしたフレアスカート。しかも、膝上10センチのミニ。歩いているときは常にスカートを押さえてないといけない気がして、おれとしては、かなり恥ずかしかったのだが、それも、これから行なうイベントのため、と思って、決死の覚悟で穿いてきたのだ。
「せーの」
 おれは、誰もいないバスルームで掛け声をかけて、えい、とばかりに左足を軸足にして回転した。一度やってみたかったのだ。遠心力で短いスカートが膨らみ、鏡には中のパンツが――見えなかった。
 意外と見えないものなのだろうか?
 もう1回やってみたが、結果は同じ。おれは、自分でスカートの裾を捲り上げてみた。ちょっと上げただけで、鏡にはおれの水色のパンツが映る。この時のために、今日は思い切って、色つきのパンツを穿いてきたのに。
 3度目も失敗。スカートはちゃんと膨らんでいるのだが、恐らくおれの視線の位置がパンツの位置よりも上にあるので、角度的にスカートの陰になって見えないのだろう。角度をなくすには、鏡までの距離を取ればいいのだが、狭いバスルームの中ではそれは無理だった。
 不公平だ。横で座って見ている人間がいたら、絶対におれの水色のパンツを見ることができるはずなのに、肝心のおれが見えないなんて。もちろん、パンツぐらい、自分でスカートを上げれば、いくらでも見ることができる。いや、そんなことしなくても、スカートを脱いで、着替えの時には嫌でも見えてしまうのだが、そういう問題じゃない。おれのような美女のスカートが風でめくれて、その中にパンツが見えるところがいいのだ。
 おれは、試しに両手でスカートの前をがばっと上げてみる。水色のパンツがはっきり見えるが、やっぱりこれでは興醒めだ。これでは、いつも着替えのときに見ている下着姿と変わらない。不可抗力で、少しだけ見えちゃったというのがいいのだ。
 おれは思案した。回って駄目なら、飛んでみてはどうだろう?
 風呂の縁が少し高くなっているので、そこから飛び上がって着地したら、下からの風圧でスカートがめくりあがって、パンツが見えるのではないだろうか。念のため、最初からスカートの両裾を手で持って広げておけばいい。いや、そこまでやったら、不可抗力とは言わないだろう、という心の声は取りあえず無視する。
 おれは風呂の縁に上がって深呼吸する。
「せーの」
 再び声をかけて思い切り飛び上がった。おれのスカートが空中で広がる。回転しなくていいので、視界もクリアだ。
 一瞬。着地寸前の瞬間、鏡に映るスカートの中に水色の物体をおれは見つけた。
「見えた!」
 と、同時に着地。右足でおれの体重と加速度を受け止めようとしたが――。
「痛っ」
 着地は、失敗。バランスを崩したおれは、バスルームのフロアに倒れこんだ。
 しまった。双葉の運動神経の鈍さを計算に入れていなかった。立とうとして、右足で体を支えようとした瞬間、痛みが走って、おれはふたたび倒れこんだ。どうやら、右足を捻ってしまったようだ。
「はあっ」
 自分が情けない。先日の火傷未遂に続いて、今度はこれだ。怪我したこと自体よりも、その原因となった行動を思うと、落ち込んでしまう。
「自分のパンツを見ようとして、高いところから飛び降りたら、着地に失敗して足を捻りました」
 馬鹿だ。救いようがない。
 自己嫌悪で、おれはしばらくバスルームに倒れたまま動けなかった。ひょっとして、園子さんが「おとなしく」と言ったのは、こういう意味だったんだろうか。
 結局、今日のおれのストリップショーは、踊り子の負傷により中止。このショーの唯一の観客――一般病棟のトイレの個室で便器に腰掛けていたおれは、待ちぼうけを食らわされ、すごすごと自分の病室へ戻っていった。

 足を痛めたおれは、さっさと洋服を脱いで、半年もの間慣れ親しんだダサい寝巻きに着替えた。痛めた足は、接地するたびにずきんと来るが、立っている分には問題なさそうだ。化粧を落として、取りあえず、習慣になってしまったお肌のお手入れだけはやった。
 入院していたときと同じようにブラジャーも外す。途端に、体を締め付けるものがなくなって、開放感が増した。ブラなしでは、動きづらいが、今日はもうどこへも行かないし、何もしない。ベッドに寝転んでしまえばあとは、揉もうが押し潰そうがノーブラでも関係ない。
 バスルームからベッドまで、ほんの20歩程度。歩けないことはないが、ちょっときつかった。どうせ、これから2日間入院だし、足を痛めたことは黙っていようかと思ったが、翌日は、健康診断を受けることになっていたのを思い出した。検査で病院中をあちこち歩き回らないといけないが、今のままの状態では難しいだろう。一晩寝て、双葉の体の自然治癒力に賭けるという手もあったが、それも期待薄に思えたので、仕方なく、看護師を呼んだ。
「一体、何やったんですか?」
 医師の診察を受けるとき、訊かれたが、さすがに、風呂の縁からジャンプして足を捻りましたとは言えないので、「バスルームで滑って転びました」と虚偽報告をした。ただ転んだにしては、酷く捻っていると不思議がっていたが、おれは知らぬ顔を決め込んだ。
 結局、念のために車椅子に乗ってレントゲンを取りに行き、骨に異常はないということで湿布をされて病室に返されたら、夕食の時間だった。
 病院にしてはうまいと評判の食事と知って食べても、やっぱり双葉の舌には味のしない普通の病院食と変わらなかった。
 食事が終わると、夕方。いつもの就寝時間がきて、おれは眠くなった。
 折角の自由時間だったのに、おれができたのは、おれの水色のパンツをチラっと見ただけ。それだけじゃあまりに悔しいので、ベッドの中でオナニーしてやろうと思ったが、双葉の体では、睡魔には到底太刀打ちできない。左胸をふた揉みばかりしたところで、おれは睡魔に負けて、眠りに落ちた。

 翌日は、健康診断。前日に痛めた足はかなりマシになっていた。多少の痛みはあるが、ゆっくり歩く分には支障はない。
 おれは、きつめのブラとゆるゆるのTシャツで身を固め、特別病室のあるJ病棟と、その近辺の病棟を右往左往して、検査に明け暮れた。どこかの会社の健康診断の一団がいて、そのうちのOLらしき若い女たちと至るところで顔を合わせた。格好は全員同じ病院の寝巻きなので、入院患者と区別がつかないが、OLだとわかったのは、彼女たちが喋っている内容からだ。大きな声でしゃべるので聞きたくなくても聞こえてくる。彼女たちがどこの会社の従業員かは知らないが、上司の課長が酷いセクハラ男だということは、よくわかった。
 基本的に、自分たちのおしゃべりに夢中になっている彼女たちだが、時折、おれの方を見ていて、たまに目が合うことがあった。最初、おれが女としておかしな格好をしているのかと思ったが、着ているものは彼女たちと変わらない。仕草も、足を開いて座ったり、変な独り言を言ったりはしていない筈だ。違いがあるとしたら、外来でやってきた彼女たちが化粧をしているのに対して、入院していたおれはスッピンだということぐらいか。それだって、フォーマルな場所ならともかく、病院ではおかしなことでもないだろう。そもそも、スッピンのおれの方が、化粧している彼女たちよりも、きれいなのだ――。
 と、ここまで考えて、はたと気付いた。
 そうか。彼女たちは、おれのことを品定めしているのだ。スッピンの癖に化粧をした自分よりもきれいなおれのことを、何者だろうかと見ているのに違いない。こんなダサい服同士。体のラインもわからないから、純粋に顔のよしあしの勝負。化粧という大きなハンデをもらいながらおれに負けた彼女たちは、ショックだったに違いない。
 男は、一歩外へ出れば7人の敵がいると言われるが、こうして考えると、女の敵は7人どころの騒ぎではない。女が一歩外に出れば、周りの女はすべてライバルなのだ。初対面だろうが、道ですれ違うだけの女だろうが、いちいち勝負が行なわれている。実際、このおれだって、内心では、このOLたちと自分とを比べ、勝ったと思ってほくそ笑んでいる。もっとも、おれの場合は、その判断基準となっているのは男のおれの見方なので、普通の女性とは多少違うのかも知れないが。
 ということで、おれは、検査の列に並ぶたびに女たちと勝負を繰り広げながら、病院の中を歩き回った。取りあえず、向かってくる敵はすべて倒したと思う。この日1日で歩いた距離は、おれが双葉の体を動かすようになってから、最長記録を更新したに違いない。元々のおれは、歩くことが苦にならない方で、地下鉄の1駅や2駅ぐらい平気で歩いたものだが、双葉の体に取っては、歩行と苦行は同義語だ。根本的に体力がない上、運動神経も鈍い。足が小さいのに、胸がでかいため、バランスを取るのが難しいのだ。おれは、この体が観賞用としては素晴らしくても、実生活向きでないことを、改めて思い知らされた。
 おまけに、この日は検査のために朝食抜き。午前中の検査を終える頃には、空腹と疲労のため、ここが病院だということも忘れて、「救急車呼んで」という気分だった。昼食を取って体力を多少回復させたが、午後の検査と診察をすべて終えて病室に戻ったときには、もう何もする気力がなかった。
 本当は、時間があったら検査を抜け出して、一般病棟へ行っておれと会ってやろうかとも企んでいたのだが、とてもそんな余裕はなかった。一般病棟に入院中のおれの方も、病室のあるフロアから出ることはできないし、退院を目指している今の段階で問題を起こすのは得策ではないので、おれが会うことはおとなしくあきらめた。
 双葉のおれは、病室に戻ると、バスルームにお湯を張って風呂に入った。疲労困憊のおれは、体を洗う力も残っていなかったので、入浴に付き添ってくれた看護師に洗ってもらわなければならなかった。妙に胸ばかり念入りに洗われるなあ、と思って看護師の顔を見て、例のレズっ気看護師だったことにようやく気付いた。胸やおしりをいやらしい手つきで触られたが、体力を使い果たしていたおれは、何一つ抵抗できず、たまに、小さな喘ぎ声を漏らすだけだった。レズっ気看護師も、さぞかし、おれの体を堪能したことだろう。実を言うと、おれもちょっと気持ちよかった。
 結局、その日は、夕食の途中で睡魔に襲われ、そのまま眠りの国へと連れ去られた。

 入院3日目。午後には園子さんが迎えに来るが、午前中は診察があるだけで暇だ。寝転んだままなら、足の痛みはほとんど感じないが、湿布は外せないので、園子さんに隠し通しておくことはできそうにない。まあ、おれが隠していたって、病院の方から園子さんに入院中のおれについての連絡が行くのだろうが。おれに取っては、当面の間これが最後の自由時間になるわけだが、昨日の疲れが残っているので、起き上がるのも億劫になり、ベッドに寝転んで本を読んで過ごした。
 おれが読んでいたのは、夫の図書室から借りてきた英国の歴史ミステリー。上下巻ある文庫本だが、2時間足らずで読めてしまった。このところ、毎朝、新聞を読んでいるので、双葉の体で文章を読むこと自体には慣れてきたのだが、まだ小説を楽しむところまでは行っていない。ひょっとすると、一生そんなことにはならない気もする。
 そんなわけで、今回の本も面白くなかった。もちろん、この本自体は面白いのだが、双葉の体のおれでは楽しめなかったということだ。既に元々のおれとして1度読んでいる本だったので、ストーリーはすべてわかっている。それでも、面白い本は楽しめる筈だし、初読のときには見逃していた作者が仕掛けた伏線を読み取るなど、別の楽しみ方もできるものだ。今回も、元々のおれが最初読んだときには気付かなかった発見がいくつかあったのだが、双葉がそれを見つけても、嬉しくないし、面白くもない。困ったものだ。
 ただ、この話の中にほんの少しだけ出てくるレズシーンのときには、心ときめいてしまった。これは、逆に、元々のおれが読んだときにはなかった感覚だ。
 令嬢とメイドとの絡み。メイドが令嬢にキスをする。メイドが令嬢の体を触る――。
 どこをどんな風に触っただとか、どんな感触だったとかということははっきりとは書いてない。読者が想像しなければならない世界。
 初めてこの小説を読んだとき、おれは想像するための何物も持ってはいなかった。だから、何も感じることなく、読み飛ばしてしまっていた。
 だが、今は違う。おれには――双葉のおれには、メイドがきっと触ったであろう物がすべて備わっている。
 すべすべの頬。ふくよかで弾力のある胸。丸くて柔らかいおしり。透き通るように白い太腿。そして、その間にある秘密の――。
 おれの体が、かあっと熱くなった。
 どんな風に触られるのだろう?
 昨日、風呂でレズっ気看護師に触られたことを思い出す。あんな風にだろうか?
 いや。そうじゃない。
 もっと、やさしく。もっと、ゆっくりと。もっと、優雅に。
 きっと、とろけるような愛撫。
 おれは、知らず知らずのうちに、自分で自分の体を撫で回す。自分で触っている感覚ではない。誰かにやさしく、この上なくやさしくされているような気がする。
 誰に?
 おれの想像の中では、その人は、白いキャップを被っていた。ナースのキャップ。なのに、体には何もつけていない。おれも、いつの間にか裸になっている。
 その人は、おれの全身をやさしく包み込んでくれた。その人のやさしさに包まれたおれは、体中が敏感になっていく。
「双葉ちゃん」
 その人がおれの名を呼ぶ。
 おれは、ベッドに横たわったまま、その人の顔を見上げる。
「園子さん」
 おれを見下ろしていた園子さんが、優しく微笑んだ。
「すき」
 おれは、園子さんを求め、園子さんがおれにキスをする――。
 めくるめく想像の世界。
 その中で、おれは令嬢になりきっていた。園子さんは、メイドのようにおれの全身を愛撫する。
「あんっ!」
 おれが思わず声をあげる。きっとそのときのおれは、とろけたような顔。
 園子さんは、おれが感じた場所をわかってくれるだろうか?
 その場所を責められたら、おれは、甘く啼いてしまうのだろうか?
 想像の中のおれは、想像の中の園子さんによって、絶頂へと導かれていくのだった。

 おかげで、園子さんが迎えに来たとき、おれはまともに園子さんの顔を見られなかった。園子さんが持ってきた洋服に着替えるときも、園子さんに見られているかと思うと、恥ずかしくて死にそうだった。
「双葉ちゃん、たった2日で、わたしのこと、忘れてしまったの?」
 帰りの車内で園子さんに言われたが、おれは、真っ赤になって俯くだけだった。
 おれの頭の中で、現実の園子さんと想像の園子さんがごっちゃになっている。そのうち、想像の園子さんが、現実の園子さんに取って代わって、おれに迫ってくるような気がしてならなかった。
 おれは、2日ぶりに家に帰ると、夫から借りた本を図書室に返した。まるで、本の中に入っている想像の園子さんを書棚に閉じ込めておこうとするように。
 それでも、想像の園子さんは、時折おれの頭の中に現れて、想像のおれを翻弄した。
 風呂場で、お互いの背中を流し合うとき、園子さんに背中を向けたおれは、恥ずかしくて、思わず自分の胸を隠してしまい、園子さんに笑われた。その癖、園子さんの背中を洗う番になると、おれは、後ろから園子さんを抱きしめて、園子さんの小さな胸を揉みたくて仕方がなかった。硬くなりかけたおれの大きな胸を、園子さんのきれいな背中に押し付けたくて仕方がなかった。おれは、そんな自分のことを抑えるのに必死で、園子さんが何か話し掛けてきたのにも、気付かないほどだった。
 結局、それから3日ぐらい、おれは園子さんとまともに話すことができなかった。
 園子さんが札幌で買ってきてくれたお土産の生チョコレートを食べたときだけは、ふたりで幸せな気分に浸っていたけれど。

 病院のおれは、保険屋を呼んで話をした。
 幸い、おれが掛けている生命保険は、死亡時の受取額を極力減らして、入院時の保障を大きくしてあった。40代の独身男性としては、自分が死んだところで経済的に困る人間はいないし、そろそろ病気が不安な年齢だから、当然、そうなる。おかげで、入院費のかなりの部分を保険会社が負担してくれている。正直、保険が下りなかったら、おれの財政は破綻していた可能性もある。
 逆に言えば、保険会社はこれまでにおれに多額の保険金を支払ってきたわけで、今後もおれの入院生活が続く限り保険金を支払い続けなければならないということだ。もちろん、保険が利く期間には一定の上限は存在するが、契約書を読んだところ、そうなるには、まだしばらくある。ということで、保険会社の立場から言うと、おれは一日も早く退院して欲しい契約者の筈だ。つまり、おれの退院を願っているという点では、保険屋も、おれの同志になりうる存在だった。
 おれの問題点は、突然意識不明になってしまうこと、それだけだった。双葉の場合と違って、睡眠時間も人並みだし、平熱も高くない。おれの中では、おれが突然意識を失う原因はわかっているし、基本的に、今後はそうはならないだろうと思っている。だが、医者の立場からすると、それはわからない。あくまで、原因不明の昏倒なのだ。おれと双葉の関係を伏せたままにしておく以上、医師たちを納得させるのは難しい。
 おれが最後に意識を失ったのは、双葉があのレズっ気看護師に胸を揉まれてパニックになったときだから、あれからまだ1ヶ月半ほどしか経っていない。これでは「ほとぼりが冷めた」とは言えない。意識不明ではないが、双葉の裸を見て興奮したときに、鎮静剤でなんとか抑えたということもあったので、おれはまだ要注意患者とみなされているに違いない。だとすると、もうしばらくは経過観察措置が続くだろうから、このままだと、最低でもあと1ヶ月、普通に考えれば、2、3ヶ月は病院に留め置かれるだろう。それを強引に退院の方向へ持っていこうとなると、やはり今の双葉のように、付き添い看護師でもつけないことにはいけないが、それは、おれの経済力では難しい。
 ということで、保険屋に相談、となったのだ。
 おれの提案はこうだ。
 このままでは、保険会社は、あと最低3ヶ月はおれに入院保険金を払い続けなくてはならない。もちろん、園子さんのような付き添い看護師を付けるのであれば、おれの退院は大幅に早くなる可能性はあるが、それは経済的に難しい。
 ならば、本来3ヶ月以上の入院保険金が必要なところ、入院を1ヶ月程度で終わらせ。浮いた保険金で保険会社が付き添い看護師を雇うというはどうだろうか?
 もちろん、今の園子さんのように24時間べったり付き添っているのではなく、簡易的に付き添うような方法で、費用を抑えてもらっても構わない。付き添い看護師付きでの退院、という話は、おれの病室にやってくる医師たちには話してあるし、彼らからは肯定的な感触を得ているのだが、病院のお偉方がそれを認めないというのであれば、保険会社の指定の病院で、この案を認めてくれるようなところへ転院してもいい。
 おれのこのアイディアを具体的なプランとして検討してみてほしい、とおれは保険会社の担当者に言った。
 おれとしては、何とか自宅療養という形に持って行きたいのだ。病院を抜け出しさえすれば、あとは何とかなる。経済的に夫に頼らざるを得ない双葉と違って、おれは、裕福ではないが自分のことは自分で決められる立場にあるので、極端な話、退院さえしてしまえば、あとは医者から何を言われようと、病院に行かなければいいだけの話だ。実際には、長期療養を終えて仕事に復帰するためには、病院の診断書が必要になるので、そう無茶なことはできないが、それでも、退院して、普通に生活できたという既成事実を作り上げてしまえば、何とかなる。
 あと1ヶ月以内に退院。しばらく通院と自宅療養をして、2ヵ月後には職場復帰。
 取りあえず、それがおれの目標となった。

 双葉のおれに取っては、単調な生活が続いた。朝の8時半に起きて、シャワーを浴びて夫と朝食。午前中にほんの少し暇な時間があるが、新聞を読んだり、読書したりして潰す。新聞は、入院中のおれの代わりに読んでくれるので便利だが、読書は相変わらず楽しくない。いきおい、小説を読むことはやめて、ファッション誌をめくって、画像データを溜め込むことに専念しがちになる。あるいは、実地訓練と称して、鏡の前でいろんな服を試着してファッションセンスを磨く。化粧の練習をするときもあった。
 夫が出張でいないときは、若干時間の余裕ができるが、読書や試着の時間が長くなるだけで、やっていることは変わらない。
 午後は、病院へ行って診察を受ける。特に、問題が起きたことはない。帰ると入浴と夕食だが、たまに、下のスーパーで買い物をすることもある。夫の図書室に園子さんが読みたい本がたくさんあるみたいなので、本屋には行かなくなった。おれのファッション誌は、ネットで注文することにした。
 腹立たしいことに、園子さんは、おれが寝ている間に、夫の図書室に行って、本を眺めてはため息をついているらしい。これも腹立たしいことに、本人の口からそう聞いた。おれが何を腹立たしく思っているのか、それ以上は敢えて考えないことにする。園子さんは、夫の図書室の本の配置を憶えてしまったみたいで、たまにおれと一緒に図書室に入ったときも、お薦めの本を迷うことなく書棚から引き抜いてくるのがおれをいらつかせた。図書室にある本は、すべて夫が読み終えた本だ。夫が読んでいた本に園子さんが触ることも、おれは嫌で仕方がなかった。
 休日には、3人で買い物に出ることもある。暖かくなってきたので、銀座のデパートとブティックを回って、春から夏用の洋服をいくつか買った。ほとんどは園子さんのお見立て。唯一の例外は、退院のときにおれのお召し物一式を揃えてくれたデパートの女課長。あとで知ったのだが、夫の旅行会社とこのデパートとは提携関係にあるらしく、我が家に取ってはデパートといえばここなのだそうだ。おれは、病院のときみたいにいろんな服を試着させられ、結局、夏物一式を買わされた。夏のバカンスにおめかしして向かう美女、というのがコンセプトっぽいが、そんな機会があるのだろうか? というか、あったとしても、今度はおれひとりでこんなものを着こなせるのだろうか? 夏にはもう、園子さんはいない筈だ。
 女課長には、ついでに水着も試着してみろ、と言われたが、おれは全力で断った。おれが自分ひとりのために家で水着を着てみるのならいいが、こんな大勢の目のあるところで、おれの水着姿を披露するのは恥ずかしかった。園子さんは、「元プロなんでしょ。サービス、サービス」と言ってけしかけたが、おれは、断固拒否した。
 園子さんとは、一時気まずいときもあったが、その後はまた以前の通り、仲良しの姉妹みたいに付き合えるようになった。園子さんは、仕事モードのときは、おれを「双葉さん」と呼び、プライベートで話すようなときは、「双葉ちゃん」と呼び分けているようだが、最近、特に砕けた会話のときなどは、「ふーちゃん」などと呼んでくることもある。もう完全にお姉さんか、下手したら母親みたい。おれの方は、子ども扱いだけど、それにも慣れてしまった。
 おれの方は相変わらず「園子さん」と呼んでいる。

 先日呼んだ保険会社の担当者が、時折おれの病室にやってくるようになった。おれの退院について病院側と交渉しているらしい。それが実現した場合の契約の問題などについても、何種類かのパターンを用意して社内で検討中だと言っていた。
 おれの方も、トイレにひとりで行かせてもらえるようになったのに続いて、看護師の付き添いがあれば、エレベーターに乗って、売店へと散歩に出掛けることも許可された。これで、おれとしては、ようやく2ヶ月程前の状態に戻ったわけだ。逆に言えば、2ヶ月近くの歳月を浪費してしまったということだが、過ぎたことはもう言うまい。問題は、過去ではなくて未来なのだと自分に言い聞かせる。
 おれと、おれの周囲が、ようやく退院へ向かって動き出してきた感じがする。
 これ以外にも、おれの方で大きな動きがあった。
 実は、おれは住んでいた千葉の賃貸マンションを引き払ったのだ。もちろん、おれは入院中の身なので、大学時代の友人が代わりに荷造りして引越屋に引き渡してくれた。荷物は、取りあえずは父親の家、つまり、おれの実家に置かせてもらっている。そこは、千葉から更に電車で1時間。30年ほど前にできた新興住宅地だ。おれが中学のときに都内のアパートから引っ越してきたのだが、都心からあまりに遠いため、子供たちは進学や就職の際に家を出て行くことが多い。結果、今では60を過ぎた老人ばかりが取り残されたような街になっている。
 おれも、大学に進学するときに、千葉市内で1人暮らしを始め、その近辺で何度か引越しを繰り返して、ここ10年程は、交通の便もよく、設備も悪くない今の賃貸マンションで落ち着いていた。
 だが、こういう事態になってしまって、おれは、住宅環境を根本から見直さざるを得なくなっていた。
 最大の問題は、資金だ。今のマンションは、千葉市内とは言え、駅から近いし、造りも悪くないし、セキュリティもしっかりしているので、家賃が結構高い。ここ数ヶ月無収入のおれとしては、経済的にきつい。
 更に言えば、保険会社と病院との交渉で、仮に退院するにしても、万一のことを考えて、なるべく病院から近い場所にいてほしい、という話が出ているようだ。病院の近くに住むのがベスト。それが駄目なら、せめて、退院直後は病院近くの旅館に泊まるなどして、すぐに病院に来られるようにしてほしいとのことだった。今のおれには、自分の家の家賃を払っておいて、その上、旅館に泊まって宿泊料金まで払うような経済的余裕はない。
 そして、もうひとつ、おれは――元々のおれは、双葉のおれとなるべく近いところにいたい、というのがあった。これは本当に、万一のときのためなのだが、おれの2つの体のどちらか一方に、不測の事態が起きたときに、近くにいれば、もう一方のおれが助けることができるかもしれない。具体的に、どんなことが起きて、どうやって助けるかというのはわからないが、近くにいて損ということはないだろう。
 ということで、おれは、千葉の賃貸マンションを引き払って、双葉のマンションとこの病院の間ぐらい(できれば、会社に通うのにも便利なところ)に新居を探していた。もちろん、予算は、これまで払っていた家賃以下であることが絶対条件。千葉市内から東京23区の中に引っ越して、家賃を下げようというのだから、相当グレードを落とさなければならないが、この際、家の良し悪しにはこだわらない。バス・トイレ付きであれば、少々古いボロアパートでもよしとしよう。もちろん、自分で探しに行くことはできないので、またしても、大学時代の友人の世話になり、いくつかの物件をピックアップしてもらった。友人は、本当にそんな場所でいいのか、と心配したが、おれは気にしなかった。
 おれの半分――双葉の方は、望外の高級マンションに住まわせてもらっているのだ。残りの半分のおれが住むところは、安アパートで充分だろう。どうせ、仕事に復帰したら、帰って寝るだけの場所だ。

 そうこうしているうちに、4月も下旬に入った頃になって、病院と保険会社との間の交渉がまとまり、おれは何とか退院させてもらえることになった。
 と言っても、最初は、病院に隣接している旅館に3日ほど泊まるだけ。旅館と言っても、観光用やビジネス用ではなく、日帰りで手術をした人を念のため病院の近くに置いておきたいようなときや、付き添いの人が宿泊するための施設のようで、宿の従業員も病人の扱いには慣れている。緊急用の携帯を持たされたし、病院の看護師が様子を見に来るので、病室を変わったのと大差はない。出てくる食事も病院のものとあまり変わらなかった。違うのは、私服に着替えて看護師に連れられ、病院まで徒歩3分の道のりを診察のために通院すること。一般の患者に混じって診察を待たなくてはならないので、却って面倒だ。時間帯が違うし、病棟も違うので、双葉のおれとは1度も会わなかった。診察が終われば、また看護師に連れられて宿まで帰っていく。今後、退院したときに、無事に通院できるかのテストをされているようなものだった。
 通院テストのような退院を3日ほど経験すると、そこで連休になるので一旦退院は打ち切り。連休中は、外来の受付も休みになるため、おれは再び入院した。

 双葉の方のおれは、連休中でも相変わらず通院していた。祝日は一般の外来は休みだが、特別病室の患者は受け入れてくれるのだ。このあたり、世の中金だな、と思わずにはいられない。もちろん、病院なのだから、入院患者に対しては、連休も何も関係ない。
 夫は、旅行会社だけあって、連休は掻き入れ時なのか、休日返上で飛び回っていた。この時期は催行されているツアーの数も多く、トラブルも頻繁に起こるので、対応に追われるのだそうだ。
 連休中の日曜日。夫が出張中で、おれが病院にも行かなくていい日、おれと園子さんは、マンションに併設されているスポーツクラブに出掛けた。おれの体力不足は深刻だったので、少しでもそれを解消しようという狙いだ。このクラブは、プール、ジム、スタジオというスポーツ設備に、サウナやバスといったリラクゼーション設備が付いたもので、設備としては昨今のスポーツクラブとしては一般的らしいが、料金は高めの設定。
 実際、ゲストで利用すると、結構な料金を取られるようだが、このマンションの住人は格安で会員になることができるので、かなりの人が利用しているらしい。結果的に、マンションの住人専用のクラブみたいになっているようだ。ちなみに、高層階の住人は、自動的にVIP会員扱いとのことだ。
 おれは、パンフレットを眺めて検討した結果、プールを利用することにした。おれの今の体力では、スタジオでのエアロビクスなんてのは論外だし、ジムのランニングマシンも無理だろう。園子さんには言わなかったが、飛んだり跳ねたり走ったりという胸を揺らすような運動は、おれとしてはあまりやりたくない。バイクを漕ぐのなら何とかというところだが、それも長続きはしないに違いないので、消去法でプールが残ったのだ。プールと言っても、泳ぐのではなく、歩くだけになりそうだけど。元々のおれは泳げるが、双葉のこの体はカナヅチなので、多分、泳ぐのは無理だと思う。
 ちなみに、おれとしては、双葉の体で水着姿になるのは初めてのこと。ちょっと恥ずかしいが、自分の水着姿と園子さんの水着姿を見られるという誘惑には勝てなかった。
 クラブに電話で連絡をして、高層階専用のエレベーターを2階で降りると、すぐにVIP会員用の受付がある。ほとんど家の中にあるのと変わらない感覚だ。
「これだったら、家から水着で来てもよかったわね」
「そんな。エレベーターでよその人と会うかもしれないじゃないですか」
 これまで1ヶ月の間、基本的に毎日エレベーターを1往復ずつ使うが、他の階の住人と顔を合わせたのは、2回しかない。2度とも、地下駐車場からエレベーターに乗り込むときに一緒になっただけだった。全部で10世帯ちょっとしかないのにエレベーターが2基あるので顔を合わせる確率自体が少ないのだろうが、住民同士が鉢合わせしないよう、途中の階ではなるべく止まらないようなプログラムになっているのかもしれない。
 おれは、会員になっているので、受付で部屋のICキーをかざすだけで手続きは終わり。園子さんも、夫がゲスト会員としての手続きを済ませておいてくれたので、面倒な手続きはなかった。ゲストの会員証も1年間は有効で、札幌にある系列店でも使えると聞いた園子さんは、大喜びだった。手続きが済むと、あとは、園子さんの水着を選ぶだけ。おれはVIP会員なので、トレーニングウェアや水着は、おれ専用のものが用意されていて、使用後は洗濯・乾燥・殺菌をして、次に来るときまで保管してくれているらしい。
 ということで、園子さんが水着を受け取ると、おれたちは更衣室へと向かう。もちろん、女子更衣室だ。おれがこの禁断の女の園へと足を踏み入れるのは初めてのことだ。
「双葉さん、どうかした? 顔が赤いけど」
 園子さんが仕事モードになって、おれの額に左手をやる。右手はおれの手首を掴んで脈を取り出した。いけない。はじめての女子更衣室に興奮してしまったようだ。
「熱は、まあ、こんなものですね。脈拍は多めだけど――」
「久しぶりに来たので、浮かれてるんですよ」
 おれは、取りあえず、笑って見せた。折角の女子更衣室体験がこんなことで中止になってはかなわない。園子さんは、「何かあったらすぐに言うんですよ」と言って、おれと一緒に女子更衣室に入った。
 憧れの女子更衣室。おれは、期待で、元々大きな胸を更に膨らませて入ったのだが、そこにはおれが想像していた光景とはまったく別のものがあった。コンパクトな部屋に充分なスペースのある高級感漂う造りのロッカー。ただし、誰もいない。
「VIP会員は更衣室も別なんだ」
 横で園子さんが言う。一般会員とは更衣室自体が別れているようだ。そもそも、受付カウンターも別々なので、考えてみたら当然なのだが。
「これだったら、他の人と一緒になることは滅多にないから、他人の目を気にしなくていいよね。さすがVIP待遇」
 園子さんは、感心したように言うが、おれとしては少々恥ずかしくても他の女性と一緒に着替えをしてみたかったです。まあ、実際のところ、このマンションの住人の年齢構成を考えると、会員の大半は30代かそれ以上。女性であっても、「当たり」と呼べるような人はほとんどいないに違いない。下手をすると、現在この施設内にいる女性で「当たり」はおれと園子さんだけかも知れない。
 ロッカーは2列になっていて、片側はジムやスタジオ利用者用。おれと園子さんは、プール利用者用のロッカー。中に、おれ専用の水着があった。
 水着はワンピースタイプで、紺の地にオレンジと白でラインや模様が入っている。このクラブでの標準的な水着だ。おれの記憶の中の双葉がこれまで着たことのあるどんな水着よりも地味。当たり前だが。
 女性の着替えというのも、前をあれこれ隠したりと作法があるのではないかと思っていたが、園子さんは、お構いなしにどんどん服を脱いでいく。まあ、ここにはふたりしかいないんだし、毎日一緒にお風呂に入っている仲なので、今更隠す方がどうかしているのだろう。おれも、園子さんに倣って、服を脱ぎ始めた。
 はじめて着る女性用の水着は、不思議な感覚だった。男物の海パンに比べたら、圧倒的に布面積は大きいのだが、肝心のところ――胸元とか股間のあたりだとかが、隠れきっていないため、おかしな感じ。いっそのこと、ビキニならばいつも着ている下着と同じ感覚なのだろうが、腹回りは布で隠れているのに、太腿は完全露出というのは、却って恥ずかしい。視線を胸に落とすと、おれのGカップバストの谷間が見えてしまっているし、おしりも半分見えちゃっているんじゃないかと気になって仕方がない。
 おれが水着の着心地に戸惑っていると、園子さんが笑ってこう言った。
「どうしたの? ビキニじゃないと落ち着かない?」
「そ、そんなことないです」
 おれは、そう言って、慌ててスイミングキャップを被ろうとする。キャップの中に髪を押し込もうとするが、うまくできないので、結局、園子さんにやってもらった。
「それにしても、さすがに双葉ちゃんはいいスタイルしてるわ」
 そういう園子さんも、スレンダーで凄くカッコいい。細くて真っ白な手足は、もう芸術品だ。惜しむらくはやはり胸がないところか。
 プールへ出る途中に姿見があったので、それを見て最終チェック。
 おとなし目の地味な水着を着ているというのに、おれのこの色っぽさはどうだろう。双葉の水着姿なんて、DVDでもっと過激なのを見ているのだが、初めて生で(実際には鏡越しだが)見るおれの水着姿に、病院のおれは股間を膨らませてしまう。
 鏡の前に立ったおれは、胸が思っていたよりも開いているのが気になって、水着を引っ張り上げたりしてみるが、そうすると、今度はおしりがはみ出してしまう気がしてならない。ひょっとして、この水着、小さいんじゃないかとも思ったが、双葉が以前から着ていた水着だ。まさか、この歳になって、背が伸びたとも思えないので、こういうものなのだろうか。
「何か変じゃないですか?」
 おれは、園子さんに訊いてみた。
「変? わたしに言わせたら、腹立たしいぐらい完璧に見えるけど」
「胸やおしりがうまく隠れてないような気がするんです」
 そう言うと、園子さんは笑った。
「うまく隠れてないというより、うまく見えてるって感じじゃない。これなら、今日の双葉ちゃんはプールサイドの視線を独り占めね。そのうち、プロの方お断りなんていう看板が出るかも」
 そうだった。おれは、園子さんと自分の水着姿を自分で見ることばかりに頭が行ってすっかり忘れていたが、この女子更衣室から一歩外に出れば、不特定多数の目におれの水着姿が晒されることになるのだ。
「何だか、恥ずかしいです」
 おれは、おれの水着姿も園子さんの水着姿も双葉の記憶に収めることができたので、今日の主たる目的は果たしてしまっている。もう、このまま帰りたいぐらいの気持ちになってきた。
「ふーちゃん、何言ってるの。あなた、プロだったんでしょ」
 プロだったのは双葉で、おれは今日初めて女性用水着を着た初心者です、と言いたかったが、園子さんは、そんなことはお構いなしで「ほら、早く行きましょ」とおれを無理矢理女子更衣室から追い出した。
 プール――とその付属施設からなる空間――は、想像していたよりもずっと広かった。
 プールは、25mだから、学校にあるようなサイズなのでそれ自体結構大きい。スタート台も1から8まであったので、横幅もかなりのもの。それとは別に小さくて浅いサブプールが併設されている。大きな銭湯によくあるような泡を噴射する装置がいくつもついていて、ここはプールよいうよりスパの感覚。プールサイドの空いたスペースには白くて丸いテーブルと椅子がいくつか置いてある。おれたちが出てきたVIP会員用の更衣室と連なる壁には、シャワーがあったり、簡易サウナがあったり、ドリンクを飲んで休憩できるラウンジがあったりする。これだけの設備が柱もなくすっぽりと屋根で覆われているので、相当広い空間だと感じる。
 料金もそれなりで人数制限もしているようなので、夏休みの市民プールと違って、それほど人は多くない。ざっと数えて、ラウンジで休憩している人も含めて30人といったところだろうか。今日は、連休中ということもあって、プールには人数制限がかけられているようだ。ちなみに、VIP会員の場合は、特別枠が設けてあるらしく、人数制限中であっても入ることができる。今日のおれたちは、それを使って入っていた。
 おれは恥ずかしいので、園子さんの後ろをなるべく小さくなって歩いていくが、おれが通ると周りの空気が一瞬で張り詰めたものに変わるのがわかる。プールサイドで普通に会話していたカップルの男の方が、会話中に言葉を失ったりするのだ。おれがふとそちらに目をやると、おれの方を見ている男の顔が赤くなっていたりする。その後の会話は、しどろもどろ。男の異変に気付いた女の方が、周囲を見回しておれを見つけると、明らかな敵意をおれに向けてくる、といった具合。
「ふーちやん」
 歩きながら、園子さんがおれに話し掛けてきた。
「あなた、この場の秩序を乱しすぎ」
「そんな。あたし、何もしてないですよ」
「あなたの存在自体が罪なのね」
 そう言う園子さんは楽しそうだ。
 メインの25mプールは、1コースから4コースまでがロープで仕切られ、泳ぐ人用。5コースから8コースまではロープで仕切らず、フリースペースという扱いのようだった。
 おれは、プールサイドから手を入れて、温度を測ってみた。温水プールなので、あったかい。これなら、大丈夫……と顔を上げたら、プールに浸かっている若い男と目が合った。彼との距離はおよそ2メートル。至近距離だ。そこで、彼の顔が真っ赤になっているのが見えた。
「ん?」
 おれは、自分の胸元を見下ろす。温度を測るために前屈みになっていたので、Gカップのバストが水着からこぼれそうになっている。若い男にしてみたら、プールに浸かっていたら、目の前に巨乳女がやってきて、胸を半分さらけだしたのだから堪らない。真っ赤になった彼は、慌てて向こうを向いて泳ぎだした。首筋から背中まで真っ赤になっている。
「ほんと、罪なカ・ラ・ダ」
 そう言って、園子さんがおれの胸を横からつつく。おれの胸がぷるんと揺れるのを見ていた別の男がやっぱり向きを変えて泳ぎ去っていく。
「園子さん」
「何?」
「お願いだから、そういうのやめてもらえませんか」
「そういうのって?」
「だから――公衆の面前で胸をつつくとか」
「いいじゃない。ふーちゃん、こんな立派なんだから、もっとアピールしないと」
「アピールするのは、3年前にやめました」
 双葉が芸能界を引退したときのことだ。
「アピールが足りなかったんじゃない?」
 最近は、こういう際どい冗談も言い合える仲になっている。
「ほっといてください」
「ふーちゃんがそんなに言うのなら、公衆の面前で胸をつつくことはやめましょう」
「ほんと?」
「その代わり、公衆の面前でなければ胸をつつくし、公衆の面前でも、胸をつつく以外のことはやめませんからね」
「ええっ、そんなぁ」
 おれは、園子さんとじゃれあいながら歩いていくが、ふと気付くと、おれの周りにやたらと人が多いのに気付く。プールの中も、不自然なまでにおれがいるサイドに人が集まっている。しかも、男の比率が圧倒的に高い。
「園子さん」おれは、小声で言った。「何だか、人が寄ってきているみたいなんですけど」
「だからさっきから言っているでしょ。ふーちゃんの体は、存在自体が罪なんだって」
「好きでこんな体になったんじゃありません」
 これは、本当のところ。
「なんと言う罰当たりな。そんなことを言う子には、こうです」
 園子さんは、そう言うとおれのおしりをひょいと撫で上げた。
「ああっ」
 おれの口から声が漏れた。
 おれの周りから、おおっ、というどよめきが聞こえたような気がした。いや。それは気のせいだったが、そんなどよめきが上がってもおかしくない雰囲気だった。周囲にいた何人かの男が一斉に走り出して、プールにざぶんと飛び込んだ。何か、慌てて冷やさないといけないものがあったらしい。
「さっき、公衆の面前で胸をつつくようなことはしないといったばかりじゃないですか」
「公衆の面前でも、胸をつつく以外のことはやめませんと、明言した筈です」
「そ、そんなぁ。なんでそんなに双葉に意地悪するんですか」
「意地悪って……。だって、そうやって困っているときのふーちゃんって、たまらなくかわいいから」
 はっ。
 おれは、身の危険を感じて、園子さんから思わず一歩離れた。
 身の危険ということであれば、おれを遠巻きにして見ている男たちも危険な存在だが、考えてみれば、いくらおれが魅力的だからと言って、こんな公衆の面前で集団強姦に及んだりはしないだろう。だが、この隣に立っている園子さんは、間違いなく危険だ。おれの中に、一時入院したときに読んだ小説のシーンが浮かんでくる。あのとき、想像してしまった園子さんとのレズシーン。
 ああ。
 また、想像の園子さんと現実の園子さんがごっちゃになってきた。
(まずいっ)
 おれは、おれの体が反応してしまう前に、プールに逃げ込む。と言っても、飛び込むのは怖いので、出入り用の手すりに掴まって、一段一段ゆっくりと降りた。
 プールは意外と深くて、おれの脇のあたりまであった。水着で抑えつけられている胸だったが、それでも浮力を得るので、ちょっと楽。水は温めで冷たくなくてちょうどいい感じ。うん。プールって、いいかも。
 おれは、試しに泳いでみようとする。泳ぎ方なんて同じ筈だから、元々のおれがやっているように手足を動かして、平泳ぎをやってみたが、だめ。沈んじゃう。深いので、足がうまくつけなくて、ちょっと怖い。
 クロールも試したが、こちらは、まず水に顔をつけることからしてできなかった。だめだ。双葉の体じゃ、泳げない。
「双葉ちゃん、泳げないの?」
 後を追ってプールに入ってきた園子さんが不思議そうに言った。
「どうせ、あたしはカナヅチのグラビアアイドルでしたよ」
「でも、泳げなかったら、お仕事のとき、困ったんじゃない?」
「水着は、撮影衣装であって、泳ぐためのものではないですから」
 園子さんは、「それもそうね」と言って笑った。
 おれは、泳ぐのは断念して、水の中を歩くことにした。よく見ると、ロープで仕切られていない5コースから8コースは、歩いている人が結構いた。ここは、市民プールじゃなくて、スポーツクラブのプールなのだから、みんな運動のために来ている。泳ぐのでなければ、歩くしかないのだ。
 水中歩行は、意外に苦痛ではなかった。水の抵抗があるので、前に進むのは大変だが、浮力があるので、立っていること自体は楽だった。別に目的があって歩いているわけではないので、なかなか前に進んでいかないこともストレスにはならない。何より、大きなバストが浮いてくれることが嬉しい。首から下がほとんど水に隠れているので、近くにいた男の性的欲望をいたずらに刺激しないのもよかった。
 おれは、ゆっくり、ほんとうにゆっくりと進んでいく。歩くというより、流されていると言った方が近いかもしれない。園子さんは、時折、おれの周りで泳ぎながらついてくる。結局、10分ぐらいかかって、おれは25mを歩き切った。疲れた。
 おれが出入り用の手すりに掴まってプールから上がろうとすると、その前に何人もの男が立っているのが見えた。
 ひょっとして、こいつら、おれが前屈みになって谷間を見せながら上がってくるのを、おれが水中を歩いていた間、ずっと待っていたのだろうか。おれは、呆れるというか、感心してしまった。
 おれと園子さんは、ラウンジで休憩。ラウンジには結構人がいたが、VIP会員用に仕切られた席が別途用意してあって、そこだと他の会員に見られずにお茶を飲むことができる。おれは、そこでようやくリラックスしてアイスミルクティーの甘い感触を楽しむことができた。
「園子さんは、泳がないの?」
「だって、双葉さんの傍を離れるわけにはいかないでしょ」
「でも、泳げるんでしょ」
「まあ、ちょっとは」
 実際、さっきは歩いているおれの周りを平泳ぎで回っていた。
「あたし、園子さんの泳ぎ、見たい」
 おれが何度もそう言うと、「それじゃ、1本だけ」と言って、早足でプールに向かっていった。園子さんは、プールの一番向こう、1コースのスタート台に立っていた。
「あれっ、あのコースは――」
 ロープで仕切られた1コースから4コースは、泳法と泳ぐ方向によって、細かく分けられているようだった。3、4コースは、平泳ぎなどの低速系とその折り返し。1、2コースはクロールなどの高速系だった。
 園子さんは、1コースのスタート台に立ったがなかなかスタートしない。しばらく手をぐるぐる回したりしていたが、おもむろに勢いよく飛び込むと、凄いスピードのクロールで泳ぎだした。
「速い」
 前を泳いでいる男性を捕らえてしまいそうな勢い。なかなかスタートしなかったのは、前の人に追いついてしまわないためだったようだ。最後はちょっとスピードを緩めたが、あっという間にゴールした。
「園子さん、凄い!」
 おれは、ひと泳ぎ終えて、颯爽と引き返してきた園子さんを拍手で迎えた。
「まさか、クロールで泳ぐとは思わなかった」
「だって、クロールのが早く帰ってこられるでしょ」
 それって、園子さんは、おれのこと、少しの間でも目を離したくないってこと? 余程おれのことを大事にしているのか。あるいは、おれのことを全然信用していないのか、どっちだろう?
「でも、男の人に追いついちゃうなんて、凄いです」
「そりゃあ、あたしは1本だけだから全力で泳げるもの。あの人は何往復もしてるみたいだから、ペースを落としているだけ」
 そもそも、「1本」なんて言い方からして、素人とは思えない。
「子供の頃、近くのスイミングスクールに通ってたの。走ったりするのは苦手だし、球技も全然駄目だけど、水泳だけはちょっと得意かな」
「あたしは、運動はみんな苦手です」
「それは見ていればわかる」
「そんなぁ」
「さっきも、ふーちゃん、泳ごうとしてたから、ちょっとびっくりした。絶対カナヅチだって思ってたから」
 はい。イメージ通り、双葉はカナヅチでした。
 アイスミルクティーを飲み終えると、おれと園子さんはプールを後にした。
 本日のメニュー。水中歩行25m。以上。
 たったこれだけだったけど、おれはとっくに体力の限界を迎えていた。相変わらず、双葉の体は体力のかけらも持ち合わせていない。このクラブでは専門のトレーナーがいて、各個人に合わせたトレーニングメニューを作ってくれるみたいなので、一度相談してみた方がいいのかもしれない。もっとも、今のおれに合った低レベルのメニューなんて存在するのかどうかも疑問だが。
 運動の後は、お待ちかねのお風呂タイム。家までエレベーター1本だから、帰ってから入ってもいいのだけど、折角なので、クラブのお風呂を体験してみた。うちよりちょっと広めの浴槽。ジャグジーがあるのはうちと同じだが、うちにはないサウナがついている。入ってみたかったが、園子さんに止められた。
「先生に相談して、許可をいただいてからにしましょう」
 とのこと。ちなみに、今日スポーツクラブに行くのは病院も承諾済みのことだ。
 ということで、ここの風呂はうちと比べると、展望がなくてサウナがついているというのが設備的な違い。設備以外でもっとも大きな違いは、他人がいること。しかも、裸の女性の。
 と言っても40代かそれ以上と思しき女性が2人だけ。完全に期待はずれ。まあ、期待したおれが馬鹿だったのだろうけど。
 お風呂のあとは、リラクゼーションコーナーで、マッサージをしてもらった。全身指圧マッサージ60分たっぷりコース。効能の一番最初に「肩こり」とあったので、飛びついてしまった。双葉のおれに取っては、肩こりが何よりの悩みの種なのだ。この重い乳房を(しかも2つも)毎日24時間肌身離さずつけていては、当然肩こりも酷くなろうというものだ。園子さんにも勧めたが、いらないと言われた。マッサージが嫌いなのかと思ったが、そうではなく、園子さんは、自分の体を自分で管理している人なので、他人の手でメンテナンスされるのは嫌らしい。今は、仕事も楽なので、マッサージの必要はないのだと言った。まあ確かに、園子さんにしてみたら、今の仕事は子守りに毛が生えたようなものだろう。
 5分ほどの待ち時間があって、施術ルームに通された。このときはじめて、マッサージ師が男だということに気が付いて、ちょっと身構える。40代のいかついおっさんだ。元々のおれだったら、ベテランで信頼が置けそうなマッサージ師だと安心したところだが、24歳人妻のおれとしては、このおっさんの手でおれの体を触られるのは恥ずかしい。大体、夫にだってまだちゃんと触らせていないのに。
 このときのおれは、真っ白いガウンを着ただけ。脱げと言われたらどうしようかと思っていたが、寝ろと言われたので、一安心。どうやら、ガウンの上から施術してくれるようだ。
 おれは、うつ伏せになって寝た。おれの大きな胸が押し潰される。この状態で背中をぐいと押されると、押し潰された乳房がクッションの役割を果たしているみたいで変な感じ。間接的にとは言え、男の手でおれの胸が押し潰されているわけで、いけないとは思いつつも切ない気持ちになってしまう。何より、向こうもプロなのだから、指におれの胸を潰している感触が伝わってしまっているだろうと思うと、恥ずかしさがこみ上げてきた。かと言って、ここで胸の位置を直すわけにもいかないので、おれは、そのままの姿勢で耐えた。向こうもさすが、プロ。何事もなかったように施術を続けた。
 結局、60分の間、おれは全身のあらゆるツボをこのおっさんに押されまくった。はっきり言って、気持ちよかった。いや、性的な意味ではなく、普通に。特に重点的に肩や首筋の辺りをマッサージしてくれたのも嬉しかった。おれは、肩こりなんて一言も言っていないのに、さすがはプロ。ガウン越しに触っただけでおれの凝り具合を看破したのだろう。
 マッサージの効果は覿面に現れ、肩こりが魔法のように消えた。凄い。もう感動。あのマッサージ受けるためだけに下のクラブに通ってもいいかも、と思ったのだが、魔法の効果は、1日で切れ、翌日にはおれはまた肩こりに悩まされることになった。
 そして――。

 連休明け。新緑芽吹く頃。
 おれは、ついに退院した。

テーマ : *自作小説*《SF,ファンタジー》 - ジャンル : 小説・文学

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07のあとがき

07は、退院した双葉の日常と退院を目指すおれの努力という、まあ、地味な章です。
大きなイベントはありませんが、小ネタがちょくちょくあって、作者は何とか読者の皆さんを飽きさせないようにと、必死です。もちろん、小ネタも楽しんで書いていましたが。

取りあえず、元々のおれの方はここでようやく退院。文庫本1冊、丸々入院していたことになります。双葉のおれの方も、行動的ではないので、どうにも動きの少ない話になってしまいました。もうちょっと動きがある話にできたんじゃないかと、今は思います。
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