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反転 後編

「おい、ユウ、こっちへ来いよ」
 昼休みの隣の教室。
 いつものように、ぼくが一緒に昼ごはんを食べようとユウを連れ出そうとすると、野太い声がユウを呼び止めた。
 タクローの声だった。
 ぼくは、その声を無視して、ユウの小さな手を取って、教室から連れ出そうとする。ユウは、困ったようにぼくとタクローの顔を交互に見ていた。
「ユウッ!」
 タクローの厳しい声が飛んだ。
「は、はいっ」
 ユウがタクローの威に呑まれたような返事をした。明らかに、いつものユウじゃない。
「トモ。お前、ユウをどうするつもりだ?」
 タクローは不敵な笑みを浮かべている。何か企んでいるのか、コイツ。
「どうするって、一緒に昼ごはんを食べるんだよ」
 ぼくは、そう答えた。
「それは、お前が勝手に言ってるだけだろ?」
「勝手にって?」
「ユウの意思を尊重しろってことだ。誰と一緒に食べるかは、ユウの自由だろ。ユウはオレと一緒に食うんだよ」
 はあ? 何言ってるんだ、コイツ。そりゃあ、ぼくとユウの仲だから、いちいち今日も一緒に昼ごはんを食べるかなんて訊かない。でも、いつもぼくたちはそうしてきたし、ましてや、ユウが、ぼくでなくて、あんなに毛嫌いしていたタクローと一緒に昼ごはんを食べるわけがない。
「ユウ」
 タクローが自分の弁当箱と箸をユウの方に差し出した。何をするつもりだ?
「玉子焼き」
 タクローがそういうと、ユウは箸を取って、弁当箱の中にある玉子焼きをそのかわいらしい口に入れた。
「ユウ……」
 ぼくが呆然として見ていると、ユウは、くちゅくちゅと玉子焼きを噛んだ後――。
 タクローにキスをした!
「えっ?」
 ユウは、長い髪をなびかせて、自分からタクローに抱きついてヤツの唇を貪っている。
 いや、キスじゃない。キスなんだけど、キスが目的なのではなくて、口移しでタクローに玉子焼きを食べさせているのだ。
「んっ――」
 時折、艶かしい声がユウの口から漏れる。見ると、タクローの手がブレザーの上からユウの大きな胸を掴んでいた。
「よし、次は、唐揚げだ。今度は、よく噛んでからだぞ」
「はい」
 ユウはタクローの言葉に従順に返事をして、唐揚げを1つ口の中に入れて、噛み始めた。
 ぼくは、そんなユウを見つめることしかできない。
「どうぞ」
 ユウはそう言って、再びタクローに抱きついてキスをした。
「ん」
 タクローがいやらしい顔でユウを抱きしめ、ユウの表情が艶かしく変わった。
「や、やめろ!」
 ぼくは叫んだ。
「何やってるんだ、ユウ。こんなヤツと」
「勝手なことを言うんじゃねぇ!」
 タクローがユウと口を離して、そう叫ぶ。
「トモキ、てめぇ、何様のつもりだ?」
 どういうことだ?
「てめぇに取って、ユウは何だって訊いてるんだよ」
「何って――親友だけど」
「親友だ? だったら、黙っててもらおうか。――ユウ、こいつに取って、お前は親友だって言ってるけど、本当か?」
「はい」
 ユウが即座に答えた。
「じゃあ、オレに取って、お前は何か、こいつに教えてやれよ」
「はい」
 そう言って、ユウはぼくの方に向き直った。その顔は、まるで、今日はじめて会ったみたいに無表情だった。
「ユウは、タクローさまのドレイです」
「え?」
 ユウの今の言葉――。
 何かの聞き間違いだったのだろうか。確か、今、「ドレイ」って言ったような。
「オレはユウに取って、何だ?」
「タクローさまは、ユウのご主人さまです」
 ユウは、ぼくに向かって、無表情のままそう言った。ぼくの聞き間違いじゃない。はっきりと、自分はタクローのドレイだと言ったのだ。
「う、嘘だ」
「嘘じゃねぇよ」
 タクローは、今度は白米が入った箱をユウに差し出す。ユウは素直にそれを口に運んで噛み出した。
「本人がはっきり言ってるんだからな。言っとくが、ユウがドレイになったのは、こいつの意思だぞ。おれがドレイになれって言ったのは確かだが、こいつには拒否することもできたんだからな」
「嘘だろ、ユウ。嘘だって言ってよ」
 ぼくは、必死にユウに問い掛けたけど、ユウは黙々と噛み続け、みたびタクローに抱きついた。
 ユウとタクローはまるで恋人同士みたいに唇を重ねている。
「や、やめろ!」
 ぼくは、大声を上げて、ユウと一緒に食べるために持ってきていた自分の弁当箱で、タクローの側頭部を思い切り殴りつけた。タクローの半分ぐらいしかないぼくの体重と、軽い弁当箱では、タクローを吹っ飛ばす、というところまでは行かなかったが、ユウと重ねていた唇をずらすことはできた。口移しを中断されて、ユウが噛んだ米粒がタクローの顔に飛び散った。
 どこからか、「プッ」という失笑が漏れた。タクローの顔が食べかけの米粒で無様に汚れていた。
「て、てめぇ――」
 タクローの顔が見る見る真っ赤になった。
「トモキ、逃げろ!」
 突然、ユウが叫んだ。
「えっ?」
 顔を真っ赤にしたタクローが、肩を震わせている。
 まずい。
 ぼくは、思わず後ずさった。
「いいから、逃げろ!」
「てめぇ、ブッ殺してやる!」
 タクローが近くの椅子を掴んで振り上げようとしたところまでは見えた。
 でも、その先はわからない。
 ぼくは、身の危険を感じ、一目散に逃げたからだ。
 ユウの教室を飛び出し、廊下を全力で駆けた。タクローがわめいている声が次第に遠くなり、聞こえなくなっても、ぼくは走り続けた。階段を駆け下り、校庭を横切って、正門の前まで走った。
 結局、その日は午後の授業には出なかった。正門の陰で時間を潰し、終業のチャイムと共に学校を出た。
 この日、はじめて、ぼくは放課後にユーイチの元に行かなかった。


 ぼくたちの学校は、テスト期間に入った。
 テスト期間中は、学校は午前中で終わり。生徒は家に帰って翌日のテストの準備をするのだけれど、そんな生徒はほとんどいなかったんじゃないだろうか。
 ユウの教室の前にできる行列は、日に日に長くなっていき、テスト期間中には、ほとんどの生徒が並んでいるんじゃないかというぐらいになったらしい。「らしい」という言い方しかできないのは、ぼくは、その行列を見ていないし、あの日以来、放課後はもちろん、他の時間にもユーイチと一切会っていなかったからだ。ぼくは、テスト期間中、テストが終わるとすぐに家に帰る稀有な生徒だった。
 ユウがタクローのドレイになったということは、瞬く間に全校生徒に知れ渡ったようだ。この学校には、毎日放課後にエッチさせてくれるとびきりかわいい美少女がいる。そして、その美少女は、望めば、男のドレイになってくれるという話が、至る所で囁かれた。その多くは声を顰めて語られていたが、中には、ユウをドレイにしてやったと、吹聴して回るものもいた。ひょっとしたら、今では、この学校の大半の生徒がユウと関係を持ち、ユウをドレイにしているんじゃないだろうか。
 ぼくは、そんな不特定多数の男のドレイになってしまったユウと顔を合わせたくなくて、ユウの教室には近寄らなかった。登下校のときも、トイレに行くときも、ユウの教室の前を通らなければいけないのだけれど、ぼくはわざわざ遠回りをしてまで、ユウの教室を――ユウに出会ってしまうことを避けていた。
 試験が終わってからも、ユウの教室の放課後の行列は続いていた。
 ぼくは、文化祭の準備のため、生徒会の仕事が忙しくなった。
 ぼくがユウと会わない日も続いていた。
 ユウが女の子になってから、もうすぐ1ヶ月が過ぎようとしていた。


「なあ、あのユーイチって子、頭もいいんだな」
 昼休みの教室で、ひとりで弁当を食べているぼくの耳に、クラスメイトの声が入ってきた。近くで弁当を食べている奴らが話しているらしい。ぼくに話しかけられたわけじゃなさそうなので、ぼくは自分の席で黙々と弁当を食べ続けていた。
「そうなのか? あの子、かわいいけど、いかにもバカっぽくないか。ベッドの上じゃ乱れまくりだろ」
「確かにな。でも、あんなかわいくて、エロい体で、エッチ大好きだけど、実は無茶苦茶頭がいいらしいぞ」
 口振りからすると、こいつらも放課後はユウの元に通っているらしい。最近は、ぼくのクラスの中でも、ユウとのことをあからさまに口に出して言うヤツが増えてきた。正直、ぼくはそんな話を聞かされるのはごめんで、耳を塞いでおきたいぐらいだったけど、聞きたくなくても聞こえてしまうものはどうしようもない。
「こないだのテスト、ほとんどの科目で満点だったらしい」
「まさか。ていうか、ウチのテストで満点なんて、ありえねぇよ」
「いや、ホントだって。昨日、オレが職員室に呼び出されたときに、近くで先生たちが話してたんだよ。英語か何かを1問間違えただけで、あとは全教科満点だったって」
「絶対何かの間違いだって。ひょっとしたら、あれだろ。あいつ、体売って問題を手に入れてたんじゃないか」
「かもな。所詮、教師だって男なわけだし」
 彼らの話は不愉快極まりないものだったけど、最近は、こういう話にいちいち反応していては身が持たなくなるぐらい、学校の中はユウに対する無責任な誹謗中傷で、あふれていた。
 ぼくは、彼らの話を聞きながら、以前、ユウと交わした会話を思い出していた。
「オレが次の試験で全科目満点取ったら、何かひとつ、オマエがオレの言う事を聞く。その代わり、どれか1教科でも満点でなかったら、オレがオマエの言う事を何でも1つ聞く」
 ユウは確かにそう言っていた。奴らの話では、ユウは「全科目満点」というわけではなかったらしい。あのときの「賭け」がまだ有効なのだとしたら、ユウはぼくの言うことを何か1つ聞かなくてはならないということになる。
 本当のことを言えば、ぼくはあの「賭け」に同意したわけではなく、ユウがひとりで勝手に言っていただけのことだ。だから、厳密に言えば、ユウはたとえ全科目満点ではなかったにせよ、ぼくの言うことなんて聞く必要はない。
 でも、もしもあの「賭け」がまだ有効なのだとしたら、そして、その「賭け」にぼくが勝ったのだとしたら、ぼくはユウに言ってやりたかった。
 誰かのドレイになんてなるな、と。


 その日も生徒会の仕事は夕方近くまでかかった。
 ぼくは、久しぶりに夕暮れ前にユウの教室へと向かうことにした。今では何百人もの行列ができるという話だが、さすがに夕方ともなると人が少なくなっている。ぼくが教室に着いた頃には20人ぐらいが並んでいるだけ。その中に、タクローの姿がなくて、ぼくは少し安心した。
 以前見たときよりも、行列の回転は随分速くなっていた。前のヤツが教室から出てくるとほとんど同時に次のヤツが反対側の戸から教室へと入る。そいつが入った途端、もうひとつの戸から今入ったばかりのヤツが出てきて、次のヤツが入るという感じだ。教室に入ったヤツは、まるで出口まで瞬間移動しているみたいに見える。放課後の限られた時間では、そのぐらいのペースで回転させていかないと、すべての行列を捌き切れないということなのだろう。ぼくの前にできていた20人ほどの行列は、あっという間に消えて、すぐにぼくの順番がやってきた。
 ユウに会うのは久しぶり。1週間ぶりだろうか。小学校のときに初めて出会って以来、夏休みだってこんなに長くユウと会わないなんてことはなかった。
 ぼくが教室に入ると、ユウはいつものように、奥のカーテン式の衝立で仕切られたベッドの上にいた。
「トモキか。久しぶりだなぁ」
 ぼくの顔を見たユウが懐かしそうに言った。ぼくがユウに会うのは1週間ぶりだが、ユウにしてみたら、放課後のこの数時間は、何日――下手をしたら、何十日にも感じられる筈。だから多分、何ヶ月もの間、会っていなかったような気になるのだろう。
 この1週間の間に、ユウはまたかわいくなった。今日も裸で、シーツで前を隠しているのだけれど、大きな胸がシーツから半分こぼれてしまっている。
「相変わらずなの?」
 ぼくの問い掛けにユウは苦笑した。苦笑いでも、ユウは本当にかわいい。
「ついに、1000人を超えた。あ、これまでの合計じゃなくて、今日1日で1000人ってこと。トモキが今日の1021人目」
「い、1日で1000人?」
 信じがたい数字だ。この学校は、1学年が360人だから、1000人ということは、ほぼ全校生徒に近い数字だ。この部屋の中が時間の流れる速さが違うとは言え、1000人ということは、1人あたり30分としても、500時間……ざっと、3週間ぐらい、ずっとエッチしていたってこと? そんなにエッチばっかりしていて大丈夫なんだろうか?
「体とか、何ともないの?」
「何とかやってるよ。1人ごとに体はリセットされるし、そのときに心の方もある程度リセットされるみたいなんだよな。1000人とやっても、そんなに飽きたりしないし、ちゃんと最後の1人まで気持ちいいし」
「そ、そう……」
 ぼくは、ユウの明るい言葉に却って俯いてしまった。
「あ、あのさ」
 ぼくは、何とかそう切り出した。
「うん?」
 ユウがちょっと小首を傾げてみせる。ちょっと会わないうちに、そんな何気ない仕草も、なんだかとても女の子っぽくなっていた。
「テスト、どうだった?」
「ああ――」
 ユウは今度は照れたような笑顔になった。
「満点取るって、約束したっけ。――ゴメン。1個だけダメだった」
「何がダメだったの?」
「英語。ていうかさ、問題が変なんだよ、アレ。慣用句としてそういう表現が存在するんだから、文法的に多少変でも、そっちが正解のはずなんだよな――」
 ユウが言っているのは、英語の前置詞の穴埋め問題。ユウは、その1問が不正解となったために、全科目満点という偉業を逃したらしい。そう言えば、ぼくのクラスの英語の得意なヤツも、あの問題はおかしい、というようなことを言っていた……。
「でも、まあ、約束は約束だ。全科目満点でなかったら、トモキの言うこと、何でも1つだけ言うこと聞く、って話だったな。いいよ。何でも言ってみろ」
「え? ――ああ。でも、ユウ的には、あの問題も正解で、満点なんだろ?」
「まあ、オレ的にはな。でも、テストって、問題のミスも含めて、そういうもんだろ」
「そうかなぁ。だって、問題が間違っていたとしたら……」
「だから、テストなんて、ゲームみたいなものなんだから、仕方ないよ。さあ、何でも、言うこと聞いてやるから、言えよ」
 そう言って、ユウはぼくにとびきりの笑顔を見せた。
「でも……」
「大体、オマエ、昨日まで来なかったのに、今日に限ってここにやってきたってことは、テストの賭けのことで、オレに何か言うことを聞かせたかったってわけなんだろ」
 確かに、ユウの言う通りなんだけど――。でも、ぼくは、それを実行してしまってもいいものかどうか迷っていた。だって、ユウが満点を取れなかったのは、ユウの責任ではなくて、問題の出題ミスのせいだったから……。
「本当に、いいの?」
「いいよ。約束だから。ただし、1つだけだぞ」
 ぼくは、そんなユウを見ながら考える。ぼくには、ユウに聞いて欲しい事がある。でも、それは1つじゃない。ユウが、こんな風に、毎日大量の男たちとエッチするなんて、嫌だったし、ましてやあのタクローなんかのドレイなんて、絶対にやめてほしい。確かに、女の子のユウはかわいいけど、できることなら、元の男に――今までみたいに、ぼくと馬鹿話できるような関係に戻ってほしい。
 約束なんていうのは、ユウが勝手に言い出したことだ。ぼくは、こんな賭け、したつもりはないし、もし、その賭けが成立していたとしても、事実上の勝者はユーイチだと思う。
「やっぱり、やめよう。ていうか、この賭け、ユウの勝ちだよ」
「まさか、勝ちを譲るのか?」
「譲るんじゃないよ。ぼくのルールでは、この賭けの勝者はユウだってこと。自分が負けたと思っているのに、賭けの賞品だけ受け取るなんて、ぼくにはできないよ。だから、この賭けは不成立。なかったことにしよう」
「オレだって、自分で賭けに負けたと思っているのに、チャラにするなんて、できないよ」
 ユウは、そう言って、ぼくの提案をきっぱりと拒否した。こいつ、昔から強情なところがあって、こうと決めたら絶対に引かなかった。ちょっと面倒なことになってきた。
 それからしばらくぼくらの間で言い合いが続いた。最終的には、ぼくが押し切られてしまった――振りをした。
「わかったよ。じゃあ、ぼくが言うことを1つだけユウが聞く。それでいいんだね」
「最初からそう言えばいいんだよ」
 ユウはマンガに出てくる高飛車な美少女みたいに胸を張ってそう言った。
「じゃあ、1つだけ言うよ。ここまでして言わせるんだから、ユウは必ずぼくの言うことを聞いてくれよ」
「男と男の約束だからな」
 ユウ、女の子じゃん、という突っ込みは置いといて、ぼくは、ユウに対して1つだけ望みを言った。
「もしも、ユウが賭けに勝っていたら、ぼくに何をさせるつもりだったか、それを教えてよ」
「は?」
 ユウの目が一瞬、点になる。
「あ、トモキ、はかったな」
「ほら、早く、教えてよ。嘘ついたり、言わなかったりというのはナシだからね。もちろん、考えてなかった、というのも、ダメ」
「オマエは素直なところだけが取り柄なのに、いつからそんなひねくれた一休さんみたいなことを言うようになりやがった」
 男口調で罵りの言葉を吐いて、頭を掻き毟る美少女というのも、なかなかかわいかった。
 ぼくは、こうしてユウに望みを言わせて、それを叶えさせてやるつもりだった。だって、ユウが満点を取れなかったのは、出題ミスのせい。だとしたら、やっぱり、勝者となるべきはユウの方なのだ。
「さあ、男と男の約束なんだろ。早く言いなよ」
「わかったよ。言うよ」
「うん」
 ユウはなぜか、顔を赤らめている。
「オマエ、ちょっとあっち向いてろ」
「どうして?」
「どうしてって――オマエに見られていると思うと、言いにくいんだよ」
 ぼくは、怪訝に思いながらも、ユウに背中を向けて、ベッドの上に座り直した。
「あのさ……」
 背中から女の子のかわいらしい声が聞こえる。
「うん」
「その……」
「……」
「オレと……エッチしてくれないかな」
「え――今、なんて?」
 ぼくは、思わず振り向いた。ユウは照れて真っ赤になっていた。
 かわいい――。
「何度も言わせるなよ。恥ずかしいんだから。オレを抱けって言ってるの」
「抱く、の?」
「そう」
「ぼくが?」
「他に誰がいるんだ?」
 そう。この部屋には誰もいない。
 ぼくとユウのふたりきり。
「ほら。オレの望みは言ったぞ。それで、オマエはどうするつもりだ?」
「えっと……」
 そう――。ぼくは……。
「ユウの望みを叶えるつもりだった」
「だったら、オレを抱け」
「う、うん。――でも」
「何だ?」
「――どうやっていいか、わからない」
 ユウは笑い出した。
「オマエはほんと、変わってるな」
「そうかな」
「まあいい。取りあえず、服を脱げ」
「うん」
「脱いだら、オレの隣に寝転がれ」
 ぼくは、ユウに言われた通り、服を脱ぎ、ユウの隣に寝た。このベッドにユウと一緒に寝るのは2回目だけど、前回は、ぼくは服を着ていた。今回のぼくは裸。もちろん、ユウも裸。ぼくの心臓がドキドキと爆発しそうだった。
「それで、この後どうすればいい?」
「あとは、本能に身を委ねればいい」
「え?」
 そんなこと言われても――。
「大丈夫。オマエはもう知っているから」
 目の前にユウのかわいらしい顔があった。頬が赤いのは、夕陽のせいなんかじゃない。
「ユウ――」
 ぼくが話し掛けようとすると、いきなりユウがぼくにキスをしてきた。
「んむむっ」
 ユウは、ベッドの上でぼくに抱きついてきた。ユウの大きなおっぱいが、ぼくの胸に押し潰されるのを感じる。
(あ――そうか)
 ユウが言った通りだった。
 ぼくは、すべてを理解した。
 ユウを――目の前のこの女の子をどうすればいいかを。
 体が勝手に動いて、気がついたときには、ユウがぼくの下で高い声を出していた。
「ああっ、凄い。凄いよ、トモキ。こんな凄いの、はじめて。サイコーだ――あ、あああぁぁんっ!」
 ぼくの下でユウの甘い喘ぎ声が聞こえる。
 ユウは、サイコーだ、と言っているけど、ぼくの方こそ最高だった。
 ユウは、かわいくて、やわらかくて、あたたかかった。
 ぼくは、本能の命じるまま、ユウに求められるままに、この美少女を抱いた。
 ぼくは、ユウの中で何度も何度も果てた。
 ユウも、ぼくの下で数限りなく、絶頂を迎えた。
 ぼくとユウは無数に交わったけど、教室の外は、ずっと夕暮れのままだった。


 永遠に続くように思えたぼくとユウとの交わりにも、終わりが来た。
 体力的、あるいは、精神的な限界を迎えたというわけでもないし、どちらかが何かを言ったわけでもなかったけど、ふたりとも、なぜか終わりだって思っていた。
 最後に、ユウがぼくに抱きついて、ぼくのぽっぺたにキスをした。
 ぼくがユウを見ると、ユウはいたずらっぽく笑っていた。
 ああ、ユウ。
 なんてかわいいんだろう。
 ぼくは、ユウのことがいとおしくって、仕方がなかった。
「トモキ、ありがとう。凄い気持ちよかったよ」
 ユウは、ベッドの上に座って、そう言った。今更、シーツで体を隠すなんてことはしなかったので、ユウの大きなおっぱいが丸見えだ。大きいけど全然垂れていなくて、でも柔らかいふたつのふくらみ。白い肌が、夕陽に赤く染まっている。
「そんなに気持ちよかったの?」
「ああ。さすがに最初のうちはぎこちなかったから、オレがリードしなきゃと思っていたけど、トモキ、どんどんうまくなっていくんだもんなぁ。最後は、オレの感じるところばかり攻められて、快感で、リードするどころじゃなかった。間違いなく、今までの誰よりも気持ちよかった」
「ほ、ほんとに?」
 ユウを気持ちよくさせることができたというのは、何だか嬉しかった。もちろん、ぼくも今まで生きてきた中で、経験したことないぐらい気持ちよかった。女の子を抱くのが、こんなに気持ちいいとは知らなかった。
 でも、感慨に耽ってばかりもいられない。ユウに言うべきことはちゃんと言っておかないと。
「ねえ、ユウ。どうしてタクローのドレイになんてなったの?」
 ぼくが問い掛けると、ユウは少し笑った。でも、それはどこか憂いを帯びた微笑だった。
「仕方がないんだよ」
「仕方がないって何が? タクローだよ。ユウはアイツのこと、あんなに嫌っていたじゃないか。それが、あんなヤツの――ドレイだなんて……」
「だって、そういうルールだから」
「ルールなの?」
 ユウは真面目な顔でうなずいた。
「今、オレとその周りに起こっていることは、そのことも含めてルールなんだよ。絶対にそれは曲げられない。オレは、この部屋に入ってきて、オレとエッチしたヤツの言うことを拒めない。そういう決まりなんだ。だから、タクローがオレにドレイになるように言ったとき、オレはそれを受け入れるしかなかった」
「そんな……」
「タクローが、オレをドレイにしたことを吹聴して回ったから、他のヤツも、みんなオレにドレイになるように言い出した。今では、オレのご主人さまは、538人もいる」
 何ということだ。ぼくが知らないうちに、ユウの――ぼくのかけがえのない親友の境遇がそんな酷いことになっているなんて。
「大丈夫なのか? そんなに大勢のヤツらのドレイになっちゃって、酷い目に遭わされたりしてないか?」
「心配してくれるのか?」
「当たり前だろ。親友なんだから」
 ぼくがそう言うと、ユウは小さく、でも、とても嬉しそうに笑った。
「取りあえず、危害を加えられたりということはないから安心してくれていいよ。ドレイと言っても、オレのご主人さまは1人じゃないから、オレを独占するようなことや、オレの体を損なうような命令は無効なんだ。あの日はタクローに口移しをされられたけど、あんなことはもうないよ。昼休みは、『ご主人さまたち』のところを回って一口ずつ弁当を食べさせて回ってるけど、何しろ、500人以上もいるんだ。数が増えすぎたんで、何日も待って、ようやく、一口って感じかな」
 ユウは努めて明るく言っているが、きっと、昼休みは目の回るような忙しさだろう。自分の食事を取る時間なんてないだろうし、この教室を出た後も、『ご主人さまたち』に何らかの命令を受けている可能性もある。
「心配いらないって。とにかく、この体、見た目と違って無茶苦茶頑丈なんだから」
 確かに、体感時間で何十日もの間、平気でエッチし続けることができる体なのだから、昼ご飯が食べられないぐらいのことは、どうということではないのかも知れない。でも――。
「ねえ、ひとつ訊いていい?」
 ユウは、「うん」とかわいく言った。
「もしも、もしもだよ。ぼくがユウにドレイになれと言ったら、ユウはぼくのドレイになるの?」
「なるよ」
 ユウはあっけらかんとそう答えた。
「トモキとはエッチしたから。オマエには、その権利がある」
 そうなのか。だったら――。
「ぼくが、ユウのご主人さまになって、ユウに『他のヤツの言うことなんて聞くな』って言ったら、その通りにしてくれる?」
「それは無理」
 ユウは即座にそう言った。
「なんで?」
「さっきも言ったろ。オレのご主人さまは、1人じゃないって。オレがトモキのドレイになったとしても、トモキはオレに取っては、たくさんいる『ご主人さまたち』の1人に過ぎないんだから、他の『ご主人さまたち』の意向を無視するような命令には従えないよ。とにかく、オレと『ご主人さま』の契約は絶対で、誰かの都合でそれを勝手に破ることはできないんだ。たとえ、それが『ご主人さまたち』の1人の命令であっても」
「そう」
 要するに、ユウはドレイになってしまったのだけれど、あまりにも『ご主人さま』が多いため、1人の『ご主人さま』ばかりにかかりきりというわけにはいかないらしい。
 だとしたら――。
 もしも、ぼくがユウのご主人さまになったとしても、ユウはぼくだけのドレイというわけではない。ユウに取って、ぼくは、何百人もいるご主人さまの1人にすぎない。ユウをボクのドレイにするということは、今まで、親友という強い絆で結ばれていたぼくとユウの関係を、却って希薄な関係にしてしまうことなのだ。
 だったら――。
「ユウ」
 ぼくは、ユウの方に向き直って、力強い口調で言った。
「決めた」
「うん」
 ユウもぼくの方を向いた。心なしか、ユウは何かを期待しているみたいだった。
「ぼくは、ユウをドレイになんてしない」
「え――?」
 ユウのかわいらしい顔が少しぽかんとした表情になった。
 ぼくの言葉は、ユウの期待していたものとは違ったのだろう。そして、多分、これから言う台詞も、ユウの期待に沿うものではないと思う。
 ぼくは、ユウのほうに向き直って、その言葉を言った。
「ぼくが、ユウのドレイになる」


 ユウの表情が曇った。
 しばらく、じっとぼくの方を見ていた。
 次第にその表情は強張っていき、ユウが女の子になってから、見せたこともない厳しい表情になった。
「トモキはわかっているのか?」
「何を?」
「自分がしたことをだよ。いいか。ここでの言葉は絶対だ。取り消しはできない。ドレイになる、と言ってしまったら、本当にドレイにならないといけないんだぞ」
「わかっている。いいよ。ユウのドレイだったら」
 だって、無数の『ご主人さまたち』を持ってしまったユウを放っておくなんて、ぼくにはできなかった。少しでも、ユウの役に立ちたい。そのためにぼくにできることは、ユウのドレイになること。それ以外に思いつかなかったのだ。
「オマエは、ドレイの意味をわかっているのか?」
「もちろん、わかっているよ。ユウの言うことなら、何でも聞くよ」
「じゃあ、オレが死ねって言ったら、オマエは死ぬのか?」
「本当にユウがそれを望むのなら。でも、ユウはそんなことをぼくに言ったりしない」
 ユウは、悲しそうにためいきをついた。
「確かに、オレはオマエにそんなことを言ったりしない。だが、オマエは忘れているぞ。オレが500人以上もの『ご主人さまたち』を持っていることを」
「え――?」
「オレはドレイだから、『ご主人さまたち』の命令には逆らえない。たとえば、『トモキに自殺するように言え』と命令されたら、ドレイのオレはオマエにそう命令せざるを得ない。オマエはオレのドレイだから、それを実行に移さざるを得ない」
 ぼくは、ユウの言葉を頭の中で反芻してみる。ユウは無言のぼくに構わず、続けた。
「オレには、複数の『ご主人さまたち』がいる。だから、『ご主人さま』であっても、オレに危害を加えるような命令は無効だ。他の『ご主人さまたち』の利益に反するからな。だが、トモキの『ご主人さま』はオレ1人だ。つまり、オマエはオレの命令には――それがオレの本心ではなくても――従わざるを得ない」
 確かにそうだ。一時の感情に駆られてぼくのしたことが、どんなに恐ろしいことか、だんだんわかってきた。
「でも、ユウの『ご主人さまたち』の中に、ぼくの命を取ろうなんて奴が……」
「いるだろう。1人」
「あっ」
 タクローだ。ぼくの頭の中に数日前の記憶が甦る。ぼくが弁当箱で、タクローの頭を殴ったときのことだ。
『てめぇ、ブッ殺してやる!』
 タクローは確かにそう叫んでいだ。
「思い出したか?」
 ユウが静かに言う。
「でも、まさか……確かに、殺してやるって言ったけど、あんなの、タクローの口癖みたいなものだろ?」
 タクローに限らず、ああいうヤツは、何かにつけて「殺す」なんて言うけど、本当に人を殺したりなんてしない。
「あのときのヤツの怒りは本物だよ。女の子から口移しで食べさせてもらっているときに、オマエに思い切り殴られたんだぞ。それも、無様にも米粒をあたりに撒き散らして。ヤツにしてみたら、こんな屈辱はない筈だ。あのときのタクローは、本当に殺意を抱いていたと思う」
「でも――」
「もちろん、殺意を抱いたって、それを実行に移すやつなんて滅多にいない。だって、人を殺したら、刑務所行き。下手すりゃ、死刑だからな。でも、この場合はそんな心配をする必要はない。ドレイのオレに一言言うだけで事は済む。後ろに手が回る心配もない。だったら、ヤツはやるぞ。間違いなく」
 確かにそうだ。あの時、ぼくはタクローに本当に殺されるんじゃないかと思った。執念深いタクローのことだ。今でも、ぼくを許してはいないだろう。
 ということは、ぼくは、死ぬ――しかないということ?
「いいか、トモキ」
 ユウが厳しい表情のまま、ぼくに顔を突き合わせるようにして言った。
「まず、やらなきゃいけないことは、オマエがオレのドレイになったことを秘密にしておくことだ」
 なるほど。確かにそうだ。
 ぼくがユウのドレイだということさえ知られなければ、たとえタクローだって、ぼくが自殺するようユウに命令しようなんて思いつかないだろう。
 さすがは、ユウ。頭いい。実質、全教科満点だけのことはある。
「でも、この手が使えるのは1日か、せいぜい2日というところだな」
「え? どうして?」
 ぼくがそう言うと、目の前の美少女は、憂いに満ちた表情になり、溜息をついた。
「オレがばらしちゃうからだよ」
「何で、ばらしちゃうのさ?」
「仕方がないだろ。オレはタクローのヤツとは同じクラスだし、毎日、ここへ来るわけだから、顔を合わせないわけにはいかない。最近のヤツは必ずと言っていいほど、オマエのことを根掘り葉掘り訊いてくる」
「ぼくのことを?」
「それだけ、この間のことを根に持っているってことだよ。オマエの情報を手に入れて、何とか仕返しできないかと考えているんだろうな。『最近、トモキとはどうだ?』なんて言われたら、オレは、オマエがオレのドレイになったと言わざるを得ない」
 そうなってしまったら、いくら頭の回転の遅いタクローでも、ユウに命令して、ボクを殺すことを思いつくのに、それほど時間は掛からないだろう。自分で思いつかなかったとしても、ユウにいい方法はないかと問いただしたら、ユウはぼくを死に至らしめる方法をタクローに教えざるを得ない。
「だから、トモキにできることは、とにかく逃げることだ」
「逃げる?」
「そう。まず、学校に来たら、教室に鞄を置いてすぐに校舎から出るんだ。朝もなるべく早く来た方がいい。とにかく、タクローやその手下どもと顔を合わせないようにすること。もちろん、オレに会うのも駄目だ。オレのことは敵だと思え」
「そんな」
「仕方がないだろう。オレは、オマエの命を取るかも知れないんだぞ。とにかく、明日からはタクローやその手下、オレからひたすら逃げるんだ。いいな」
 ユウを敵だと思って逃げ回るなんて嫌だったけど、ぼくは既にユウのドレイなので、ユウの命令には逆らえない。「わかった」とうなずくしかなかった。
「授業には一切出なくていい。放課後になったら、オレはこの教室にいるから、少なくとも、オレに見つかる心配はない。最悪、タクローたちに見つかっても、オマエはオレと違ってタクローのドレイではないから、ヤツの言うことは聞く必要はない。だから、万一見つかった場合は、ひたすら逃げること。いいな」
「でも、いつまでも、逃げ回るわけにはいかないよ。授業も出なかったら、そのうち退学になっちゃうし」
「非常事態なんだから、仕方がない。それに、永遠に逃げ続けるわけじゃない。取りあえず、あと3日だ」
「3日――」
「そう。あと3日だけ逃げてくれればいい」
「3日経つとどうなるの?」
 ぼくがそう問うと、ユウはかわいらしい顔で不敵に笑った。
「あと3日で、すべてが変わる」

 
 翌日、ぼくは、早朝に家を出た。
 学校に着いたのは、朝の7時。気合の入った運動部の連中でも、ようやく練習を始めようかというような時間だ。
 誰もいない教室に鞄を置くと、教室を出て、人目につかないところを見つけて、そこで時が経つのをひたすら待った。
 学校では、時間帯によって、人がいる場所が異なってくる。早朝に人がいるのは、運動部が使っているグラウンドと部室近辺ぐらい。ぼくは、校舎の間の中庭に身を潜めることにした。次第に日が高くなってくると、登校してくる生徒が増えて、校舎近辺では人の姿を見かけるようになったので、ぼくは、裏庭の方に移動した。授業が始まってしばらくは、そのまま校舎裏にいたが、時間が経つと裏門から昼の購買の業者がやってきたりして落ち着かなかったので、体育館の裏手へと移動した。
 結局、体育館の近辺も、授業が終わるたびに人の出入りがあるので、ぼくはこの季節には誰も近寄らない場所――プールの更衣室の陰に隠れて時間を過ごすことにした。
「はーあ」
 早朝から学校へやってきて、授業も受けずにこうして人目を避けて逃げ回っているのは、思っていた以上に気疲れしてしまう。自分でも、いったい何をやっているのだろうと、馬鹿らしくなるが、仕方がない。ユウの命令なのだから、「ドレイ」のぼくは逆らえない。
「あ、しまった」
 プールの更衣室の陰に隠れてしばらくしたところで、折角持ってきた弁当を教室の鞄の中に忘れてきたことに気付いた。と言っても、今更教室には戻れない。
 購買でパンでも買おうかと思ったけど、昼休みの時間に出て行くわけにはいかない。授業時間中に行ったら、怪しまれること間違いないので、あきらめるしかなかった。
「あーあ、今日はお昼抜きか」
 明日は弁当を持ってくることを忘れないようにしよう。ぼくはそう心に誓って、空腹を抱えながら退屈な時間を過ごした。
 昼休みの時間が過ぎ、午後の授業が終わっても、ぼくは1人でプールの更衣室の陰に座っていた。試しに、更衣室のドアのノブを回してみたが、鍵がかかっていて、中には入れなかった。さすがに夏でもなければ、こんな場所には誰も来ない。時が経つにつれて陰の位置が変わるのと、ぼくの空腹感が次第に増していく以外、何の変化もない時間が過ぎて行った。
 午後の授業も終わって、放課後。退屈な時間が更に続く。
 何もすることがなかったぼくは、昨日のユウとのことを思い出していた。
 とびきりかわいいユウの笑顔。小柄で均整の取れた体。大きくてやわらかい胸。すべすべの肌。甘い声。そして――。
 永遠に続くように思えたあのときのことを思い出すと、ぼくの体は興奮してしまった。
 恥ずかしい。
 誰も見ていないはずなのに、ぼくは真っ赤になって、プールの更衣室の陰に隠れていた。
 日が次第に傾き、夕暮れになって、ぼくはようやく立ち上がった。腕時計で日没時間を過ぎたことを確認すると、ぼくは自分の教室に戻り、机の上に置きっぱなしにしていた鞄を掴んだ。弁当に手をつけられていないぼくの鞄は、朝来たときと同じ重さのままだった。朝ごはんの後、何も食べていなかったぼくは、死ぬほどおなかが空いていたけど、ここに長居するわけにもいかず、大急ぎで教室を出た。
 日暮れ直後の薄明かりを頼りに、隣の部屋――ユウの教室を覗いてみたが、もう誰もいなかった。


 次の日も、同じように早朝から学校へやってきて、プールの陰に身を潜めていた。
 今度はちゃんと弁当を持っていくのを忘れなかったけど、あんまり退屈だったので、10時過ぎには弁当を食べてしまった。おかげで、夕暮れを迎える頃には、昨日と同じぐらい腹ペコになっていた。
(これだったら、明日は弁当の他にパンか何か買っておいた方がいいな)
 ぼくは、そんな呑気なことを考えながら、教室に戻るために校舎の方へと歩き始めた。
「絶対どこかにいる筈だ。しっかり探せ!」
 校舎の入り口まであと数メートルというところまで来たところで、突然、いきりたった声を聞いた。
 タクローの声だ。
 ぼくは、慌てて校舎の陰に身を潜めた。校舎の陰からそっと顔を出して見てみると、タクローが3人の手下たちを集めているところだった。
「リーダー、こんな時間だし、もう帰ったんじゃないですか?」
「ヤツの鞄はまだ教室に残ってるんだ。どっかに隠れてるに決まってる」
 タクローは、手下を使って、ぼくのことを探しているらしい。それも、何が何でも探し出すという気構えのようだ。遠目にも、タクローの目がいってしまっているのがわかる。
 どうやら、ぼくがユウのドレイになったことは、もうバレでいると考えた方がよさそうだ。これは、どうあっても見つかるわけにはいかない。これまでみたいに、のんびり隠れていればいい、というわけにはいかなくなった。手下たちに怒鳴り散らしているタクローを見ていると、ぼくは、心底恐怖を感じた。
 幸い、タクローと3人の手下は全員校舎の外を探している。ぼくは、この隙に、教室へ鞄を取りに戻ることができた。
「いたぞ!」 
 鞄を持って、校舎を出るところで、手下の1人に見つかってしまった。彼との差は30メートルほど。
「万一見つかった場合は、ひたすら逃げること」
 ぼくは、ユウの「命令」に従って、一目散に校門目掛けて駆け出した。
「いたぞ! いたぞ!」
 すぐ後ろで声がするが、ぼくは振り向きもしなかった。
「追え! 捕まえろ!」
 途中から、タクローの声も聞こえてきたが、振り向かない。とにかく必死で走った。
「ハァ、ハァ」
 校門を駆け抜けそのまま最寄り駅まで徒歩10分の道のりを3分ほどで走り切り、ちょうどホームにやってきた電車に飛び乗ったところで、膝に手を当てて一心地付いた。
 ここまで、来れば、取りあえず、大丈夫。
 でも――。
 明日はどうなのるだろう?
 タクローは本気だ。あれほど必死にぼくを見つけ出そうとしているということは、やはり、ドレイのユウに命令して、ぼくを死に追いやろうとしていると考えた方がいい。直接でなくても、人を殺すということをヤツはどう考えているのだろう?
 多分、今のタクローは正常な判断能力なんてなくしてしまっているに違いない。ユウを通じて、ぼくの命を奪うということに酔っているのだろう。
 これから一晩たって、冷静さを取り戻してくれるだろうか?
 可能性はゼロとは言えなかったが、それに賭けるわけにはいかない。何しろ、賭けられるのは、ぼくの命なのだ。どうあっても、明日一日、タクローと手下たちから逃げ切らなくてはならない。
 そのための方策をぼくは必死で考えたが、結局、何ひとつ名案は浮かばなかった。


 3日目。
 ユウは「あと3日だけ逃げてくれればいい」と言っていた。3日ですべてが変わる、とも。
 ということは、今日一日だけ、何とかタクローたちに見つからないようにすればいいということだ。今日という日が過ぎると、一体何が変わるのか、ぼくには想像もつかなかったが、ユウがぼくに対していい加減なことを言う筈もない。ぼくは、ユウの言葉を信じて、今日一日、何が何でも逃げ切って見せる、と心に誓って学校に向かった。
 あのタクローが早朝から来ているわけがないと思ったが、念のため、今日は始発電車に乗って出かけた。6時半には学校に着いたが、校門はまだ閉まったまま。もちろん、タクローもその手下たちもいなかった。
 校門の脇でしばらく待っていると、警備の人がやってきて、門を開けてくれた。一目散に教室に向かい、鞄を置く。弁当――途中のコンビニで買ったパンとペットボトルのお茶――を持って、校舎を出ようとしたところで、タクローの手下たち3人が校舎に向かって歩いてくるのが見えた。
 まずい。このまま出て行ったら、鉢合わせてしまう。
 ぼくは、慌てて引き返そうとしたが、ふと思いついて、上履きを脱いでぼくの下駄箱のスニーカーと取り替えた。そうしておいて、裸足で校舎の中に引き返し、一番近くの教室に逃げ込んだ。
「まったく、勘弁してほしいよな。こんな朝っぱらから」
「何が、朝のうちに、トモキを捕まえとけ、だ。タクローのヤツ、人に早起きさせといて、自分は今頃夢の中か? やってられねぇぜ」
「でも、アイツの機嫌損ねると、また面倒だもんなぁ」
 3人が校舎に入ってきたのだろう。ヤツらのぼやき声がぼくのいる教室まで聞こえてくる。
 彼らの言葉から察するに、タクローは、手下の3人に、ぼくを捕まえるよう命令して、自分は家で寝ているらしい。ボスが来ない上、早朝から狩り出された3人は、明らかに士気が低い。これは、ぼくにとっては有利なポイントだ。
 これは、ぼくの命を賭けた「鬼ごっこ」だが、「鬼」たちの真剣度が低ければ、ぼくが逃げ切れる可能性は高くなる。少なくとも、ボスであるタクローがやってくるまでの間は、余程のことがない限り、見つかったとしても、捕まることはないだろう。
 ぼくは、1階の教室の教壇の陰に未を潜めてじっとしている。
「取りあえず、教室行くか?」
「そうだな。トモキのやつ、昨日はずっと鞄を置きっぱなしだったからな。まずは来ているかどうか確認だ」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 他の2人を呼び止める声がした。
 確か、この声は、コーヘイってヤツだ。タクローの手下たちの中では、一番体が小さくて、そのせいか、手下たちの中でも、一段低く扱われている。そのコーヘイが、ちょっとおどおどしたような声で他の2人を呼び止めたようだ。
「取りあえず、下駄箱を調べた方がいいよ」
「下駄箱?」
「だって、上履きがあるかどうかで校舎の中にいるかどうか、わかるだろ」
「あ、そうか。コーヘイ、いいとこ気付いたな」
 その後、しばらく言葉が途切れた。多分、ぼくの下駄箱を開けて、上履きがどうなっているかを確認しているのだろう。
「ないな」
「ってことは、トモキはまだ来ていないってことか」
「もう来てて、外に出て行ったのかもしれないよ」
「どっちにしても、校舎の中にはいないってことだ」
「じゃあ、外を探すか」
 やった。靴を持ってきたのは正解だ。ぼくが外にいると思い込んでくれたようだ。
「でも、一応、校舎の中も見といた方が……」
 コーヘイが弱々しく言う。
「いいだろ、別に」
「そうだよ。馬鹿正直に必死になって探すことないって――じゃあ、こうしよう。オレがこの下駄箱のとこで張り込むから、お前ら正門と裏門のとこで待っとけ」
「だったら、オレは裏門行く」
「じゃあ、コーヘイが正門な」
 会話はそこで途絶え、遠ざかっていく足音と共に、ぼくのいる教室には静寂が訪れた。
「ふぅーっ」
 ぼくはようやくひとつ息を吐いた。
 取りあえず、これで当面――他の生徒が登校して来るまでの間――はなんとかなりそうだ。しばらくはこの教室にいて、他の生徒がやってきたら、ここを出よう。一応、下駄箱のところに手下が1人いるみたいなので、窓から出た方が無難かもしれない。仮にその姿を見られたりしても、あの口振りからすると、余程目の前で見つからない限り、必死に追いかけてきたりはしないだろう。所詮は、タクローに言われて嫌々ぼくを探しているだけのヤツらだ。必死になって逃げればなんとかなる。
 ぼくは、頃合を見計らって、窓から教室を抜け出した。大丈夫。正門からも裏門からも、このあたりは死角になっているので、見つかる心配はない。
 取りあえず、ぼくはいつもの場所――プールの更衣室の陰に隠れた。ひとつ所にずっといるのは、そのうち見つかりそうで怖かったが、さすがに授業中は探しに来ないみたいだ。ぼくは、買ってきたパンを午前中のうちに食べてしまった。ペットボトルのお茶は半分残した。
 昨日の放課後、タクローがぼくを必死で探していたのを見掛けたときには、どうなることかと思ったけど、かなり希望の光が見えてきた。なんと言っても、ぼくが持っている最大のアドバンテージは、ぼくがこの「鬼ごっこ」の終わりを知っているということだ。
 今日いっぱい逃げ切ればいいということを、ユウから教えられてぼくは知っているが、多分、タクローたちはそのことを知らない筈だ。きっと、明日もあさってもこの「鬼ごっこ」が続くと思っているに違いない。この差は大きいと思う。ギリギリの局面になったとき、「今日さえ逃げ切れば」と思っているぼくは必死になって逃げるけど、「明日でもいいか」と思っているタクローたちは、ぼくほど必死には追いかけてこないだろう。この違いがぼくにとっての最大のアドバンテージだと思う。実際問題、今日しかない、と思っていたら、授業中だろうがなんだろうが、ぼくを捕まえにくる筈だ。
 それに、手下たち3人の士気が低いのもぼくに取ってはプラス材料だ。本当にぼくを捕まえたいと思っているのは、タクロー1人だけ。あとの3人は、命令されて嫌々それに従っているだけだから、本気でぼくを捕まえにきたりはしないだろう。第一、タクローはおそらく、ぼくの命を取るつもりでいるのだ。手下の3人にしたら、そんなことに加担したいとは思わない筈だ。
 となると、実質的な敵はタクロー1人だけ。ヤツはあの通りの巨漢なので、接近戦になってしまったらひとたまりもないが、足は遅い。たとえ見つかっても、距離さえ離れていれば逃げ切れる公算が大きい。
 ということは、とにかく、至近距離でタクローと出くわしたりしないようにだけ気をつければいい。幸い、昨日のタクローは、普通に構内を歩き回ってぼくを探していた。あんな探し方なら、ぼくはヤツが近くにいればすぐにわかって、逃げられる。向こうもこちらと同じようにこっそり隠れるように探していたら、どこかで出くわしてしまう可能性もあるけど、所詮、タクローは狩る者。敵に見つかることにはノーリスクなので、「相手に見つからないように」という発想自体がないのだろう。
 こうして考えていくと、とにかくぼくが気を抜いたりしなければ、捕まる可能性はほとんどないという結論に達した。
 よし。大丈夫。
 絶対に逃げ切ってやる。
 誰もいないプールの更衣室の陰で、ぼくはひとり心にそう誓った。


 放課後になった。
 あとほんの数時間。それだけの時間、逃げ切れば、ぼくの勝ちだ。
 さすがに、向こうもありとあらゆる場所を探そうとするだろうから、いくら見つかりにくいところとは言え、1つの場所に居座り続けるのは危険だ。ぼくは、最後に残っていたペットボトルのお茶を飲み干して、立ち上がった。ふと思いついて、空になったボトルはその場に立てておく。昼前に食べたパンの包みもそのままにしておいたので、もしも、タクローたちがこれを見れば、ぼくがここに潜んでいたとわかるだろう。多分、タクローは、ここにはもういないと判断して、別の場所を探す筈だ。そうなれば、最後にはこの場所はもっとも安全な場所ということになる。
 ぼくは、構内を少しずつ移動した。なるべく、校舎の壁や植え込みで身を隠しながら。
 自分でも、明らかに不審な生徒なのだとは思うが、仕方がない。とにかく、周囲に気を配り、細心の注意を払って移動した。
 途中、何度かタクローやその手下たちを見かけた。ヤツらは、4つに分かれて、別々にぼくを探しているようだ。
 タクローは、相変わらず、自分の身を隠そうともせず、ふんぞり返って歩いていたので、遠目からでもすぐわかる。時折、ケータイでなにやら怒鳴り散らしていた。手下たちにハッパをかけているのだろうが、肝心の手下たちは、やる気なさそうに校内をだらだらと歩いているだけだった。
 次第に日が傾いて、夕方が近づいてきた。あたりは薄暗くなりかけている。
 もう大丈夫だ。最後に、教室から鞄を取ってくるという仕事がひとつ残っているが、これは、最悪、明日の朝でもいい。もうあと少しすれば、日が落ちて完全に暗くなる。それなれば探すどころではない筈だ。
 ぼくは、念には念を入れて、いつもの場所――プールの更衣室の陰に向かった。
 案の定、ここにも奴らは来たらしい。ぼくが立てておいた空のペットボトルは、少し離れた場所に転がっていた。タクローが「チクショー」とか言ってボトルを蹴ったのが目に浮かぶようだ。
 ぼくは、いつもの更衣室の陰に腰を下ろした。太陽は沈み切るにはまだ少し時間があるが、建物の陰になるこのあたりでは、ぼくの体は闇に包まれつつあった。
「やっぱり、ここに戻ってきたんだな」
 不意に声がした。
 薄暗いプールの更衣室の裏に、小柄な陰が現れた。
 タクローの手下のひとり。コーヘイだった。
 ぼくは、慌てて立ち上がって逃げ出そうとした。
「そっちは無駄だ。待ち伏せしてるよ」
 ぼくの足が止まる。振り向くと、コーヘイは手にケータイを持っていた。
「あとの3人には連絡済。そっちへ逃げたら、間違いなく捕まるよ」
 ああ。そうだった。さっきまで、構内を移動していたときも、コーヘイの姿だけは見ていない。コイツだけは、隠れてぼくを探していたということなのか。
「わざとらしかったよ。これ」
 そう言って、コーヘイは地面に転がっているペットボトルに目を向けた。
「ひょっとして、最後にはここに戻ってくるつもりかなと思ってたら、大当たりだ。――あ、動くなよ。タクローたちは、大声を出せばすぐにやってくるから」
 コーヘイは、ぼくから数メートル先に立ちはだかっている。コーヘイと反対側にはタクローとその手下2名がいると言う。
 コーヘイは、タクローの手下の中では、一番小柄だ。身長は、ぼくよりも5センチ以上低いだろう。
 ということは――。
「強行突破しかないって考えた? だけど、いくらボクでも、トモキ1人を足止めするぐらい、何とかなるさ。ほんの少し持ち堪えればタクローたちがやってくるんだから」
 確かに、コーヘイはぼくよりも小柄だけど、彼が立ちはだかっているのは、ほんの幅3メートルぐらいの細い通路だ。コーヘイに全く触れずに横をすり抜けようとしても、無理だろう。ぼくを一時的に捕まえて、足止めしておくぐらいのことは可能だ。
「それより、ボクの質問に答えてよ。返答次第によっては、ここを通してやってもいい」
 そう言って、コーヘイは、薄い笑みを浮かべた。
「トモキ、ユウとはヤッたの?」
「え?」
 不意を突かれて、ぼくは、一瞬固まった。
 次の瞬間、ユウのきれいな裸体とやわらかな肢体が思い出されて、ぼくは、真っ赤になった。
 コーヘイは、それで答えを察したようだった。
「ヤッたんだな!」
 コーヘイの顔が真っ赤になった。声が少し震えていた。
「オレだけ。オレだけだ。ユウとヤッてないのは」
 そう吐き捨てるように言って、コーヘイはぼくの方を睨んだ。
 ヤッてないって、コーヘイはあの行列には1度も並んでいなかったってこと?
「学校中、全員がユウとやったってのに、オレだけがヤッてないなんて。タクローも、ほかの手下たちも、散々ユウとヤッといて『オマエは駄目だ。見張っとけ』って。何でだよ? 全校生徒どころか、教師までがやってんだぞ。今更、見張りも何もないだろう。ひょっとしたら、トモキ。オマエだけは――ユウの親友のオマエだけはヤッてないと思っていたのに、オマエもほかのヤツらと一緒かよ」
 コーヘイの目が座ってきた。ヤバイ。
「どうだった?」
「え?」
「親友を抱いてみて、どうだったかって訊いてんだよ。ユウのでかいオッパイを揉んだんだろ。ユウのあそこにぶちこんだんだろ。親友とヤッてみて、どうだったんだよ」
「やめろ!」
 ぼくは思わず叫んだ。
「これ以上、ユウのことを言うな」
「なんだと? いい気なもんだよな、トモキは。大体、オレが何でこんな目にあっているか、わかるか? オマエだ。オマエのせいなんだよ」
「ぼくの?」
「オマエがおとなしく、タクローのグループに入っていれば、オマエはオレの下だったんだ。いや、オレはアイツのグループから抜けられたかもしれないんだぞ。それを、オマエが入らなかったばかりに――」
 確かに、ぼくがタクローのグループに入っていたら、気弱なぼくは、コーヘイよりも更に下に扱われていたかもしれない。だけど、ぼくは、あのとき最大限の勇気を振り絞って、タクローのグループに入らなかったんだ。そんな努力を何もせずに、タクローの手下になってしまったコーヘイに、こんなことを言われる筋合いはない。
 だけど――。
 マズイ。コイツ、完全に目がイッちゃってる。とても、理屈が通用するような状態じゃない。逃げなきゃ。
 ぼくは、コーヘイの脇のわずかな隙間目掛けて、ダッシュした。
「逃がすか!」
 何とかすり抜けたと思った瞬間、ぼくの足に何かが引っかかった。コーヘイの腕だ。全力で駆けていたぼくは、バランスを崩して、思い切り地面に転がった。
「リーダー、いました。見つけましたよ!」 
 転がっているぼくの上にコーヘイがのしかかっていた。ぼくよりも小柄だとはいっても、全体重をかけられたんじゃ、ぼくは起き上がることができなかった。
 そのうち、タクローの他の手下たちがやってきて、ぼくは完全に抑えられてしまった。
 最後にやってきたタクローが地面に押さえつけられているぼくを見下ろした。
「コーヘイ、よくやった。オマエもユウとヤッてもいいぞ」
「ほ、ほんとに?」
「ああ。ユウをオマエのドレイにしてやれ」
 タクローから褒美をもらったコーヘイは、喜色満面という顔をしている。ぼくにとっては、想像するだけでも、不快な話だったが、今は、それどころではない。
 何とかこの状況から逃れようと、力の限り暴れたが、4人がかりではどうすることもできない。そのうち、誰がどこから持ってきたのか、ロープで腕を縛られてしまった。
「離せ、離せ。誰か、助けて!」
 助けを呼ぼうと叫んでみたが、夕暮れ時の季節はずれのプールの更衣室のあたりに都合よく誰かがいるわけもない。そのうち、ガムテープで口も塞がれてしまった。
「んっ、んっ」
 それでも必死に暴れようとするぼくを、タクローたちは両手両足を抱えるように運んでいく。
「どこへ行くか、知りたいか?」
 タクローがぼくに話し掛ける。
「教えてやる。オマエの親友のユウのところだよ。ユウから聞いたぜ。オマエはユウのドレイになったんだってな。ってことは、ユウはオマエの親友じゃなくて、ご主人さまってわけか。オマエはユウのドレイだから、ユウの命令には絶対に従わなくちゃならない。ユウはオレのドレイだから、オレのユウに対する命令も絶対だ。これがどういうことか、わかるか?」
 もちろん、わかっている。わかっているから、きっと、ぼくの顔は今、恐怖で引き攣っている。
 タクローは、恐怖に脅えるぼくを見て、明らかに楽しんでいた。
「オレは、ユウに既に命令を下している。多分、オマエが想像しているような命令だ。オレは、オマエとユウとを引き合わせるだけでいい。そうすれば、ユウがオマエに命令してそれをオマエが実行する。どんな命令かはそのときのお楽しみだ」
 ぼくは、体の自由を奪われたまま、校舎の中へと運ばれていく。日はほとんど暮れかけていた。
 階段を昇るとき思い切り体をよじったので、バランスを崩して階段から落ちそうになった。
「暴れるな! 落ちたら、危ないだろうが」
 タクローが怒鳴るが、ぼくは、落ちて怪我をしたら、なんて言っていられない。このままユウのところまで連れて行かれたら、怪我どころでは済まないのだ。ぼくは、階段から転げ落ちてもいいというつもりで、必死に暴れたが、タクローたちは、何とか持ちこたえて、階段を昇った。
「さあ着いた」
 ぼくの体が下ろされた。
 ユウの教室の前。行列は、もうなくなっていた。
 日は暮れた、ということなのだろう。
「ユウ、出て来い。オマエのドレイを連れてきてやったぞ」
 頼む。ユウ。出てこないで。
 口をガムテープで塞がれていたぼくは、必死になって心の中で祈った。
 だけど、ぼくの祈りも虚しく、教室の扉がガラガラと開いた。
 ユウ――。
 ブレザーの制服に身を包んだ美少女が現れた。
「さあ、ユウ。ご主人さまの命令だ。オマエのドレイに命令してやるんだ。死ねってな」
 ユウがタクローの方を見て、薄く笑った。一瞬、時間が止まったように感じた。
「悪いな、タクロー。もう時間切れだよ」
「あ?」
 タクローは、ユウの言ったことがわからないようだった。
 ぼくにも、何のことだかわからない。
「時間切れ。もう、オマエの命令に従う必要はなくなったということ」
「何だと? てめえ、ご主人さまに向かって、何言ってやが――」
「準備は終わった。さあ、『反転』の始まりだ」
 タクローの言葉を遮って、美少女のユウが静かに言うと、世界が『反転』した。


 ガクン。
 体が熱い。
 全身に激痛が走る。
 苦しい。
 駄目だ。立っていられない。
 ぼくは、その場に立っていられなくて、膝をついた。
 周りを見ると、タクローと2人の手下たちも、膝を折っている。
「な、何? どうした、みんな。リーダー、オイ!」
 コーヘイだけは、突然苦しみ出したぼくたちを目の当たりにして、うろたえはじめた。
「オイ。ユウ、どういうことだ、これは?」
 ユウだけがひとり立ち尽くしている。無表情で、人形みたいだ。
 コーヘイは、ユウににじり寄ろうとしたが、何か見えない壁にぶち当たったみたいに跳ね返された。
「ああああぁぁぁっ!」
 叫び声が聞こえた。タクローだ。
 ぼくは、そこで信じられないものを見た。
 あのタクローの巨体が、縮んでいく。100キロはあろうかという体がみるみるしぼんでいって、半分ぐらいの大きさになった。
 いや。ただ縮んだだけじゃない。髪が伸び、顔つきかやわらかく、そして白くなる。体が縮んでしまったためにダブダブになってしまった真っ黒な学生服も、小さくなった。袖が短くなり、袖口からタクローの手が見えるが、その手は、以前のようなごつごつしたものではなく、細くて白いまるで女の子のような手になっていた。
「う、うわぁああっ!」
 タクローは、自分の変化に耐え切れなくなったのか、叫び声をあげて、地面にうずくまる。腰の辺りまで伸びていた豊かな黒髪が、床に広がる。その叫び声も、以前のような野太い声ではなく、甲高くて、どこか儚げな少女のようなものに変わっていた。
 着ていたガクランも、みるみる形を変えた。上着は、しゅるしゅると女子用のブレザーに姿を変え、真っ黒なズボンは、すそから姿を消していき、膝から上はひだの入ったスカートに変化した。そこから除く2本の脚は、脛毛なんかとは一切無縁な女の子の脚だった。
「な、何だよ、これ」
 タクローは――いや、さっきまでタクローだった少女は、甲高くて舌ったらずな声を漏らし、顔をあげた。
 その少女は、小柄で、童顔で、せいぜい中学生ぐらいにしか見えないが、制服のブレザーを押し上げている胸のふくらみは、ユウよりも、更に大きかった。
「なんか、胸が重いぞ」
 中学生にしか見えない美少女が、はちきれんばかりにふくらんだ自分の胸をブレザーの上から撫で回していた。
 変わってしまったのは、タクローだけではない。コーヘイ以外の2人の手下も、同じように制服のブレザーを着た女の子に変わってしまった。どちらも、ユウみたいなとびきりの美少女だ。ふたりとも、長く伸びた髪に戸惑い、変わってしまった服に驚き、膨らんだ胸に手を当てている。
 そして、ユウは――。
 美少女だったユウは、いつの間にか、元の男のユウ――ユーイチに戻っていた。
 ユウがぼくの方を向いて笑った。
「よくがんばったな。トモキ。これで終わりだ。もう心配することはない」
「ユウ」
 元の少年の姿に戻ったユウ。ぼくは、ユウの前に立った。全身を襲った痛みはなくなり、熱かった体も元通り。ぼくの口を塞いでいたガムテープも、手足を縛っていたロープも、いつの間にかなくなっている。
 ユウが女の子だった間、ぼくの方が高かった身長は、ユウが男の子に戻ったことで、元通り、ユウの方が高くなっていた。
 ――ていうか、こんなにユウの方が高かったっけ?
 ぼくは、違和感を感じた。
 ユウは、男のユウは、多分、元のままだ。
 それに対して、ぼくの方は――。
 さっきから、長い髪が鬱陶しいし、何だか、足元がスースーする。
 それもその筈。ぼくは学生服のズボンではなくて、膝上までしかない短いスカート姿だった。
 ――え? スカート?
 ぼくは、慌てて自分の体を確認する。明らかに学生服とは違う服。驚いて、ぼくは胸に手を当てる。触ってみたときに、やわらかい弾力のある感触。
 この感触。覚えがあるぞ。確か、ユウの胸を触ったときに感じた感触。
 そして、そのときには味わえなかったもうひとつの感触。
 それは、自分の体のやわらかくて弾力のある部分をさわられる感触。
 ってことは……。
「トモキ、かわいくなったな」
「かわいい?」
 なんだこれ? ぼくの声もなんか違う。
「かわいいよ、トモキ。オレ、トモキみたいな美少女を見るの、はじめてだ」
「美少女って――」
 つまり、ぼくも、女の子になっちゃったってこと?
 戸惑っているぼくに向かって、男に戻ったユウが言った。
「前から何度も言ってただろ。これは『反転』だって」


テーマ : *自作小説*《SF,ファンタジー》 - ジャンル : 小説・文学

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