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呪遣いの妻 06

 おれの会社は、自動車部品の町工場から出発して、部品メーカーや機械メーカーを吸収合併して大きくなった会社だ。取りあえず、同業他社の買収は一段落して、今後は、他業種への参入を図っているところだった。
 当面のターゲットは、とある電機メーカー。その電機メーカーをいかにして手に入れるかが、今年度の最大の課題となっている。
 翌週になると、その電機メーカーの買収に向けての仕事が多くなってくる。そこで、事前に小娘に概要を説明することにした。
 「居間」に小娘を呼び、水ようかんを食べながら話をする。今日の『お茶会』で6個入りの水ようかんを取り寄せたのだが、秘書5人では1個余る。それをじゃんけんで獲得した一番若い秘書が、おれにくれたものだ。もちろん、見返りは、今夜彼女のマンションに泊まりに行くことなのだが。
 小娘の方は、おれのお気に入りの豆で淹れたコーヒーをうまそうに飲んでいた。
 取りあえず、その電機メーカーの会社パンフレットを小娘に渡す。
「この会社、知ってるか?」
 小娘は首を振る。
「電機メーカーとしては中堅クラスの会社だぞ。エアコンとか冷蔵庫も作っているんだが、聞いたこともないのか?」
「でも、こんな会社の冷蔵庫なんて、見たことないですよ」
 そう言って、小娘はパンフレットを裏返して見たりしている。まあ、そうだろう。こいつぐらいでは知らないのも無理はない。
「この会社は業務用の電気機器メーカーだ」
「業務用?」
「いわゆる家電メーカーではなく、ビルや工場、倉庫で使うような業務用の大型の電気機器を作っている会社だ。空調設備から大型の冷蔵庫や冷凍庫、あと荷物用エレベーターなども作っている。バブルの頃は羽振りがよかったが、最近は不景気で、どこの企業も設備投資をしなくなっているから、ここみたいな工場相手の会社は、売り上げが落ち込んでいる。ここ5年連続で実質的な赤字決算ということだ」
「ふーん。――あれ?」
 小娘が首を傾げた。
「うちの会社も、工場に機械売ってる会社ですよね」
 おれの会社は、元々は自動車部品メーカーだったが、今では、機械メーカーとしての売り上げの方が大きくなっている。
「どうして、うちは、赤字じゃないんですか?」
 こいつ、よく、そこに気づいたな。まあ、こいつは、このところ毎日、無理矢理社長の仕事をやらされている。言い換えれば、おれと秘書たちから直々に、社長としての英才教育を受けているようなものだから、そのぐらいのことは気付いて当然と言えば当然なんだが。
「いいものを作れば、売れるんだよ。うちの機械を入れれば、確実にコストダウンできるわけだからな。もちろん、わが社は、工場の生産管理のノウハウでも、業界トップのものを持っている。売り上げを伸ばしているだけじゃなくて、コストも抑えてるから、儲かるのは、当然だ」
 それ以外にも、おれの会社で作っているのは、その会社でメインの製品を作る工作機械なのに対して、この電機メーカーのは空調などの周辺機器だから、重要度が違うという理由もある。
「ということは、この会社はうちとは逆ということですか。いいものを作ってないし、生産性も悪い」
 実際のところ、この会社の組織は旧態依然としていて、何かにつけて、無駄が多い。おれに言わせたら、ここの工場などは、穴の開いたタライに穴の開いたバケツで水を汲むような仕事振りだ。
 上層部もそれを改善していこうという気がないし、研究開発に力を注いで、新製品を世に生み出していこうという気概も持ち合わせていない。過去の実績を食い潰しているだけの典型的なダメ会社だ。
「で、この会社を乗っ取っちゃおうってわけですか」
「乗っ取るとまではいかないな。さすがに、中堅クラスの電機メーカーともなると、うちぐらいの資金力では、買収は難しいから、資本投入して、取りあえずは業務提携というところから始めることになる」
 去年から、目立たないように、複数の名義でこの会社の株を買い集めていて、今のところ、10%ぐらいまで買い進めることができたところだ。
 だが、この程度では、経営権を握ることはできない。まずは業務提携でうちのノウハウを導入し、この会社を立て直して、その実績を楯にして株主を味方につけ、実質的におれの会社の傘下に収める、というシナリオだ。もちろん、その過程で大量の工作機械をこの会社に売ることができる。
「ということは、今は赤字だけど、うちの技術を取り入れれば黒字になるような会社だから、買収しようということなんですね」
「それだけじゃないぞ。そのパンフレットの最後のところをよく見てみろ」
 小娘は、言われて持っていたパンフレットを裏返す。
「似たような名前の関連会社がたくさんありますね」
「その中に、知ってる会社の名前がないか?」
 小娘は、パンフレットをじっと見ている。1つの名前に目が止まったようだ。
「あ。これって、テレビとかパソコンを作ってる家電メーカーですよね。有名な女優さんがCMやってるとこ。ひょっとしてこの会社は、この家電メーカーの子会社ってことですか?」
「逆だ。この赤字電機メーカーの子会社に日本有数の大企業である家電メーカーがあるんだ」
 元々、業務用の電気機器専門の会社だったのが、蛍光灯などの家庭用電気製品に業務を拡大したのが今から60年前。その後、家電部門が別会社として独立し、今や日本有数の大企業にまで成長した。現在でも、この赤字電機メーカーがこの家電メーカーの大株主となっている。
「ということは、本当の狙いはこっち?」
「そういうことだ」
「ふーん。この名前も聞いたことないような電機メーカーをあたしの会社の傘下に収めれば、日本有数の家電メーカーもついてくるというわけなんですね」
「お前の会社じゃない。おれの会社だ」
「うわっ。旦那さま、細かい。そんな人の言葉尻ばかり捉えてるような女の子は、嫌われますよ」
「おれは男だ」
「ええっ、この間は女の子って、自分で言ってたじゃないですか」
 もちろん、かつての子会社といっても、現在は上場されているので、影響力は限られている。それでも、この旧親会社からは常に複数の役員が出向しているので、おれがこの会社の経営権を取れれば、間接的に日本有数の大会社に影響力を行使できるというわけだ。
 この家電メーカーは、電気自動車のバッテリーや太陽光発電パネルといった、今後、環境絡みで有望視されている技術も持っているので、なんとしてでも食い込んでおきたい企業だ。ゆくゆくは、この家電メーカーを核にして、一大企業グループを形成するというのがおれの野望だった。
 ただし、こういう業績の割りに資産価値が大きいという会社だから、うち以外にも、この赤字電機メーカーを狙っているところがある。ここ数年、積極的に企業買収を繰り返して、急激に成長してきたIT企業がそれだ。
 このIT企業は、以前はパソコンや携帯電話のソフトを開発して売っていた中堅企業だったが、数年前に社長が交代してから、急激に成長を始めていた。新しい社長は、前社長の妻。社長交代と同時に離婚したので、元妻というべきだろうか。元々は名古屋の資産家の娘だと言うが、夫の浮気に激怒して、慰謝料として、夫が所有している株を巻き上げて会社の実権を握ったという話だ。当時は、世間知らずのお嬢さまに何ができるかと言われたが、本業のソフト開発の仕事は重役たちに任せて、彼女は、ブティックで気に入った服やアクセサリーを買い漁るように、さまざまな業種の企業を傘下に収めて、今では、ちょっとした企業グループに成長していた。
 この赤字電機メーカーの取り合いは、当初は、おれの会社とこのIT企業の一騎討ちと見られていたが、ここにきて、国内系の投資ファンドもこの会社に興味を持っているという噂も流れている。今の段階では噂に過ぎないが、おれの会社のメインバンクからもたらされた情報だし、同様の噂がまったく別の出所からも流れているので、確度の高い話らしい。
「理解できたか?」
「要するに、日本有数の家電メーカーを取るために、親会社の電機メーカーを狙っているけど、うちの他にも、この電機メーカーを狙っているところがあるってことですね」
 取りあえず、こういった基礎知識だけを持たせて、この件に関する最初の役員会に臨ませた。今回は、社長として発言する予定はないから、話を聞いているだけだ。
 おれの基本方針を役員の1人が説明して、それに対して、各人が思うところを述べる。時折、社長の意見も求められるが、「特にない」「検討しておく」「その話は後だ」などと、と小娘が適当に答えておく。最近では、こういう細かい受け答えは、いちいち台詞を一字一句教えなくてもこなすようになってきた。難しい質問には、部下が答える。元々、会議でのおれは、言葉少なに睨みを効かせるタイプだったので、不審には思われていないようだ。最初の会議は、役員が共通認識を持ったところで散会した。
 役員会の後、秘書室長が社長に面会を求めてきた。役職は秘書室長だが、彼女も役員の1人に名を連ねている。先程の役員会で発言をせず、社長だけに直接話をするというのは、何か考えがあってのことだろう。
 世の中のワンマン社長の中には、すべてを自分で決めてしまって、部下には一切意見を言わせないという人間もいるようだが、そんな会社の先は知れている。そういう会社は、社長の能力がすべて。ある程度のところまでは大きくなっても、社長の器よりも大きくなることは、決してない。
 トップの人間が、どれだけ部下の能力を発揮されられるかが、更なる会社発展の鍵となる、とおれは考えている。もちろん、誰も彼もが社長の方針に異を唱えていたのでは会社が進んでいかないので、おれは、特に能力を高く買っている数人にだけ、余人を交えず、おれに直接意見することを許していてた。秘書室長は、そんな数少ない人間の1人――というより、おれが社内でその能力をもっとも高く評価している人材だった。
 彼女は、社長と2人きりで話したいと言っていたので、小娘の姿のおれは、同席することはできない。取りあえず、小娘には、即答は避けて「考えておく」と言うように指示をして、「居間」で秘書室長と小娘を会わせた。
 約1時間半後、2人が寄り添うようにして出てきた。一目見てわかった。こいつら、社運を賭けた1大プロジェクトの相談をしながら、1発やってたらしい。
「勝手なことしたら、仕事放棄と看做すと言ってただろう」
 秘書室長が社長室から出て行くのを待って、小娘に詰め寄った。
「ちゃんと仕事しましたよ。あの子を抱きながらだったけど、ずっと仕事の話だったんですから」
 まったく。「あの子」って、彼女はお前よりも1回り以上年上だぞ。
「彼女は何回か意識が飛びかけたのを必死で保ってたみたいですけどね。あんなどうしようもなく感じてるのに、ちゃんとお仕事の話ができるなんて、やっぱり、あの子、凄いですよね」
「ほんとは、感じてなくて、演技だったんじゃないのか? あいつら、秘書の仕事は、抱かれるのが半分、感じたふりをするのが半分とか言っていたんだぞ」
「ええっ。そうなんですか。でも、それって、旦那さまが社長のときの話ですよね。ふーん。そうなんだ」
 くっ。おれは、自分で墓穴を掘ってしまった。これではまるで、おれのセックスが下手だったと小娘に白状したようなものではないか。
「あたしのときは、そんなことないですよ。最初の頃は、確かにそんな感じでしたけど、今では、みんな、あたしのテクの虜ですよ。よがり狂うっていうんですか。いつもそんな感じですもん。さっきだって、居間で普通に話すか、ベッドでやりながら話すか、どっちがいいかって訊いたら、ベッドがいいって、あの子の方から言ってきたんですから。何なら、あの子に訊いてもらってもいいですよ。中であたしとどんな風に話したかって」
 わざわざ、社長と2人きりで話をしたのだから、そのことについて新米秘書に話すわけがないだろう。
「で、どんな話だったんだ?」
「今度の業務提携の話は、経営陣の交替を迫った方がいいって。あたしが社長になるべきだって」
「お前じゃなくて、おれが、だな」
 一応、小娘からも話を聞いたが、秘書室長には、この話を文書で報告するようメールで指示した。その方が確実だ。最近は、おれの目の届かないところは、すべてメールで報告させるようにしている。
 その主旨はこうだった。
 当初から、この赤字電機メーカーの話は、業務提携という線で進めていた。
 相手側は、実質赤字続きとは言え、かつての子会社である日本有数の家電メーカーの配当や、工場敷地の地代という収入で、その赤字を補填できていたため、現状維持という声も強かったのだ。本業で儲けなくても、子会社の利益を注ぎ込めば、赤字なんて飛んでいく、というのがこの会社の昔からの考え方だった。そんな会社だから、向上心のかけらも持ち合わせてはいなくて、会社を駄目にしたのだろう。
 そういった状況では、本業の業績不振を理由にいきなり経営権の移譲を迫ったところで、それを呑むとは考えられなかった。そこで、一歩譲って、業務提携という穏健案を示せば、相手も業績を改善したいという思いぐらいはあるだろうから、納得すると見ていた。どちらにしても、株式の10%も保有されれば、役員の1人や2人は送り込まれるのだから、向こうもおれの会社とまったくの無関係というわけにはいかない。
 この電機メーカー争奪戦のライヴァルであるIT企業の方は、女社長の実家が持っている資産と株式公開で市場から得た資金をバックに、目に付いた企業を傘下に収めていくだけの会社だ。本業の業務改善といったようなヴィジョンもノウハウも持ち合わせてはいない。向こうの方が資金力はあるので、確かに資金繰りは一時的に改善されるだろうが、根本的な業績向上にはつながらないから、業務提携という線で押していけば、おれの会社の方に分がある、と見ていた。
 ところが、ここへ来て、国内系投資ファンドの参入という噂が聞こえてきた。投資ファンドは、この赤字電機メーカーなど眼中になく、所有している家電メーカーの株式だけが目当てだ。そんなところに買収されようものなら、家電メーカーの株式という旨味のある肉の部分だけを切り分けられ、あとは切り刻まれて解体されてしまうだろう。
 そうなっては会社の存続も難しく、元も子もないということで、現状維持派がここへ来て心変わりを見せはじめているとのこと。現経営陣に対しても、長年の業績不振の責任を追及する声が出はじめており、この際、方針を変更して、強気に経営権の譲渡を求めるべきだというのが秘書室長の主張だった。
 だが、現経営陣を退陣に追い込むまではともかく、その後釜におれが座るためには、株主総会を経なければならない。そのためには、10%にも満たない今の持ち株比率を、せめて40%ぐらいには増やす必要がある。となると、銀行からの多額の融資が必要となり、この借金が将来、おれの会社に重くのしかかることも考えられる。最悪の場合、銀行に首根っこを抑えられて、おれの会社自体を銀行に取られてしまう危険もあった。
 その危険を冒さずに株主総会を乗り切るためには、現在いる株主をこちら側につける必要があるが、これこそ暗躍が噂されている投資ファンドの出番を作るようなものだ。株主を取り込むためには、何らかの好条件をちらつかせる必要があるが、そうなると、必然的に株価が釣り上がる。株価が上がれば、おれの会社の資金力では、投資ファンド相手に勝ち目はない。
 これまで、強気一辺倒で会社を大きくしてきたおれとしては、ここも秘書室長の意見を入れて、強気に出たいところだったが、これまでと違って、他業種への参入ということで、慎重にならざるを得ない。何しろ、下手をすれば、たった1度の敗戦で、これまで築き上げてきたものをすべて失いかねないのだ。
 ということで、おれの結論としては、当初の予定通り、業務提携路線だということを秘書室長には伝えておいた。


 この赤字電機メーカーとの公式な会合を前に、向こうの役員クラスの連中と会うことになった。役員の中でも、おれの会社寄りの派閥の連中だ。こちらは非公式な会合だから、会うのは定時後。最近できた高層ビルの中にある日本料理店で会食をしながらということになった。他の席とは完全に隔離された座敷で、両社の面々が相対する。
 こちらからは、社長と常務、秘書室長、それに新米の秘書が1人。つまり、おれだ。向こうは専務、事業本部長とその部下が2名。この専務とは、小娘と体を入れ替えられる前に何度か会っている。
 現在のところ、向こうの役員は3派に分かれているらしい。1つが社長を中心とする現状維持派。元々は、この派閥がもっとも強力だったのだが、投資ファンドの参入という噂が出て以来、力を失いつつある。
 次がこの専務を中心とするおれの会社との業務提携推進派。基本的には、おれの会社の力を利用して、本業の経営状態を改善していこうというグループだ。今夜の会合の出席者は、専務以下、全員がこの派閥に属している。
 もう1つがそのどちらにも属さない一派で、対抗上、IT企業派となっているようだ。このグループは、日の出の勢いのIT企業の傘下になることによって、取りあえず資金繰りを楽にして、会社と自分の保身を図ろうという者が多いようだ。
 いや、自分の保身を第1に考えているという点では、どの派閥のものも同じと言えるかもしれない。誰もが、自分の会社の将来についての明確なヴィジョンを持っているわけではなく、社内のパワーバランスの成り行き上、今の派閥に属しているという者がほとんどだろう。だから、今はおれたちの会社に与しているこの専務派の役員たちも、必ずしも本業の業務改善を望んでいるわけでないということは、肝に銘じておく必要がある。社内の実力者である専務という大樹の陰にいるだけなのだ。だからこそ、この専務はどうしてもおれの会社の味方につけておかなければならない。
 実際問題、最近では、現状維持派の社長は求心力を失い、現状維持派だった筈の役員が、次々と他派に鞍替えしている。このままいくと、現状維持派の勢力をどれだけ取り込むかということでIT企業との争いが決着しそうな様相だ。
 会合は、和やかな中で進んだ。この場で確認したのは、この専務が、おれの会社との業務提携提案を受け入れること。そのための役員内での多数派工作をすること。おれの会社との業務提携が結ばれた際には、現社長を退陣させ、この専務が社長に昇格することだった。
 事前に水面下で交渉を進めていたので、難なく合意に達し、あとは、親睦を深める席となった。
 向こうの専務は、今年60歳だが、でっぷりと太っていて、まだまだ脂ぎった感じで、枯れたところなどどこにもない男だった。他社の人間と組んで現社長を追い落とし、自分がそれに成り代わろうというような人間だから、そのぐらいの活力はあるに決まっている。
「そちらのお嬢さんは、またお若いようですがおいくつですかな?」
 中学生ぐらいにしか見えないおれに興味を持ったのか、専務が訊いてくる。
 おれの外見は、こんな場にはどう考えても似つかわしくないが、さすがに、この重要な会合に、小娘1人で行かせるわけにはいかないので、ついてきたのだ。
「18です」
 仕方がなくそう答える。今のおれだと、こいつから見ると、孫娘みたいなものか。
「中学生みたいに見えますが、これでも、高校出てるんですよ」
 小娘がそう言った。小娘は、テーブルを挟んで専務と酒を酌み交わしている。
「何をしてるんだ。専務にお酌してさしあげないか」
 「社長」の姿をした小娘が「秘書」の姿のおれに向かってそう言った。
(おれに酌をしろだと?)
 だが、今のおれの立場では拒むわけにはいかない。まさか、酒席で多少不快なことがあったからといって、先刻の合意が反故になるとは思えないが、それでも、この場ではトラブルだけは避けなくてはならない。仕方なく、お銚子を持って、専務の隣に座る。以前、見たときよりも、この男が大きく見えた。でっぷりと太っているこの男は、体重ではゆうに今のおれの倍以上はある。
「どうぞ」
 おれが注いだ酒を専務は1口で飲み干した。
「ああ。若い子が注いでくれた酒はうまいな。まさか、この席で、こんな若い子に酌をしてもらえるとは思わなかった。――さあ、ご返杯」
 そう言って、専務は今呑んだお猪口をおれに渡す。
「いえ、わたしは」
 小娘の体は、アルコールを受け付けない。拒もうとするが、向こうは「いいじゃないか、一杯ぐらい」と言って、無理矢理盃をおれに押し付けようとする。座ったまま体を捩って逃げようとすると、大きな左腕で体を抱えられた。ぞっとするような嫌悪感を抱いたが、酒席の戯れで事を荒立てるわけにもいかない。
「専務、この子は未成年ですので、お酒はどうかご勘弁いただけますか」
 そう言って、秘書室長が専務の右隣に座った。
「この子に代わって、わたくしがいただていもよろしいでしょうか」
「おお、そうか。それじゃ、一杯」
 秘書室長のおかげで助かった。これで、このオヤジから解放される、と思ったが、このエロ専務、おれを左腕で抱えたまま離そうとしない。むしろ、ぐいと引き寄せられて、専務の体にべったりと寄り添うように座らされた。更には、「もう少し、こっちへ来んか」と言って、秘書室長とも体を密着させる。
 まさに、両手に花といった状態。おれの体は、エロ専務の太った体に密着されられていて気持ち悪い。こいつ、おれたちをホステスか何かと勘違いしているんじゃないのか?
 とは言っても、おれの会社の秘書たちは、実は社長の愛人だという噂ぐらいは聞いているだろうから、秘書室長もおれも、このエロ専務の接待のために呼ばれたコンパニオンぐらいの認識でいるのかもしれない。
「さあさ、ぐっとあけて」
「専務ももう一杯、お召し上がりになって」
 酒のやりとりは、秘書室長との間で続いていたが、左腕はおれの体を離そうとせず、ぎゅっと抱きしめられていて、おれは身動きが取れない。たまに腕の力が緩んだかと思ったら、エロ専務の手が、おれの短いスカートからのぞいている太ももの上を這った。
(ひっ)
 悲鳴を上げそうになったが、なんとか呑み込んだ。
 「おれ」の姿をした小娘は、そんなやり取りを複雑そうな面持ちで眺めている。
「さ、あなたからも、専務にお酌をしてあげて」
 いい加減、こいつの相手が嫌になったのか、秘書室長がおれに振ってきた。
「専務、どうぞ」
 しぶしぶ酌をする。体を抱きかかえられたままなので、やりづらい。おれは、元々こういう接待のような席は好きじゃないが、今日のは特に最低だ。
「それなら、これをご返杯と行くか」
 エロ専務は、目の前のお造りから鮪をひと切れ箸で取って醤油につけ、おれの口へと持ってきた。
「はい。あーん」
 馬鹿馬鹿しいが付き合わざるを得ない。
「あーん」
 作り笑顔で口を開けて待っていたら、鮪の赤身を放り込まれた。
「!」
 ツンと来た。わさびつけすぎだろ。
 身動き取れないおれは、顔をしかめて、首をぶるんぶるんと振るしかない。
「どうした?」
「専務、この子は、まだ子供なんですから、わさびのきいたお刺身は無理ですわ」
「おお、そうか。そうだったな。それなら、今度は玉子焼きをやろう」
 もう、勘弁してくれ。
 相変わらず、エロ専務はおれを手放してはくれない。仕方がないので、酔い潰してしまおうと、ひたすら酌をする。
「いやあ、何杯呑んでも旨い。今日は、あんたのおかげで、久しぶりに旨い酒が飲めた」
 お前はそうかもしれないが、おれの方は、今日は生涯で最悪の酒席だ。
「ああ、ちょっと酔ってきたかな」
 盃を持つ手つきがふらついている。おれが注いだばかりだったので、酒が盃の上でなみなみと揺れている。と、思ったら、いきなり専務がぐらついた。
「ああっ」
 持っていた盃の酒がこぼれて、おれのブラウスの胸元にかかった。
「おお、これはいかん。早く拭かないと」
 エロ専務は、おしぼりを手に取って、おれのブラウスに押し当てる。
「!」
 こら、お前、俺の胸触ってるぞ。というか、今、こぼしたの、絶対わざとだろう。
 そもそも、こいつ、おれみたいなまっ平らな胸を触って、嬉しいのか? どうせ胸を触るのなら、俺じゃなくて秘書室長の巨乳を触ればいいものを。
 そういえば、以前に元の体でこの専務と会ったときには、別の秘書も同席していたのだが、そのときにはこんな感じではなかった。ということは、何か? このエロオヤジ、秘書たちのような豊満な美女よりも、おれみたいな華奢な少女の方が好きなロリコンエロジジイなのか?
 ブラウスが酒臭くてかなわない。酒の匂いを嗅いでいるだけで、酔っ払いそうだった。
 その後も、エロ専務に捕まったまま酒席は進み、最後のデザートで出てきた抹茶のアイスクリームも、このエロジジイの腕の中で食う羽目になった。
 この体になってから、こんなに旨くないデザートを食べたのは、はじめてだった。


 翌日は、朝から体調が優れなかった。前夜に、日本酒をこぼしたブラウスを着ていたため、匂いだけで酔っ払いそうなぐらい気持ち悪かったが、まさか、あれで二日酔いになったんじゃないだろうな。
 取りあえず、休んでもいられないので、会社に行く。
 小娘は、あの後、秘書室長のところに泊まったようだ。秘書室長と一緒にやってきた小娘は、社長室でおれと2人きりになるなり、文句をぶちまけた。
「何ですか、あの専務は。あたしの大事な体に何してくれるんですか」
 小娘も、昨夜のエロ専務の狼藉には、腹を立てていたらしい。
「ほんとに、あんな奴と組まなきゃならないんですか?」
 それは、おれだってそう思う。だが、この世界、最低な人間だが、権力を持ってる奴はいっぱいいる。人間性だけで判断していたら、仕事なんてできない。
「あの専務は、向こうのキーマンだからな。あいつ1人の意向で、何人もの役員の意見を変えることができる。今更、あの専務と決別してしまったら、おれの会社と提携しようという役員は、1人もいなくなってしまうぞ」
「でも。――それに、あいつ、あたしの体だけじゃなくて、あたしの秘書にまであんなことを」
「お前のじゃなくて、おれの秘書だろ」
「いっそのこと、あんな奴、切り捨てちゃいましょう。手を組んだって、あいつはそのうち裏切りますよ。それだったら、一緒にいた事業本部長の方が信用できそうでいいですよ」
「信用できそうって、それ以前に、お前の人を見る目は信用できるのか?」
 現実問題として、役員の中で、あの専務は社長に次ぐ実力者だ。社長も、このところの業績不振で求心力が急激に低下しているので、今では、実質的にあの会社の最高実力者といっていい。たかだか10%程度の株主が、ライヴァルのIT企業や投資ファンドとの争いを制して、あの会社に深く入り込んでいくには、やはり、エロ専務の力が必要だ。
 小娘は、しばらく文句を垂れていたが、そのうちおとなしくなって、仕事に戻った。今日も決済書類は山ほど溜まっている。
「それにしても、旦那さま、今日は元気ないですね」
 今日は、妙に体がだるいし、腰の辺りが重い感じがする。
「大丈夫だ。多分、昨日の酒席で疲れたんだと思う。服に酒をかけられたろう。ずっと酒臭かったから、蒸発したアルコールで酔っ払って、二日酔いなのかもしれん」
「そんな。あたしの体なんですから、もっと大切に扱ってくださいよ。――あ、あたしの体」
 小娘が何か思いついたようだ。
「どうした?」
「旦那さま、それ、アレですよ」
「あれって?」
「あの日です。――もうすぐ来るんです」
「来るって――あ」
 思い当たった。生理か。
 って、おれが? まあ、今の体だとそうなるのか。
 そういえば、妻に「戻してくれ」と頼んだとき、「女の子として、一通りのことは経験してみるべきだ」と言っていたが、生理もその中に入っているのだろう。そうか。それで、期限を1ヶ月としたのか。
 だけど、生理になるって、どうしたらいいんだ?
「多分、あさってぐらいからだと思うけど、今から準備しておいたほうがいいかなあ」
「準備って、どうするんだ?」
「旦那さま、何も持ってきてないですよね」
「え? ああ、生理用品って奴か?」
 当然、そんなの持ってない。
「じゃあ、秘書の子か誰かに、ナプキンもらってきてください」
「おれが行くのか?」
「あたしが行ったら、変でしょ」
 まあ、そうだ。
 だが、秘書にナプキンをくれなんて、言いに行くのか? このおれが。
「なあ、別に、今日、始まるってわけじゃないんだろ」
「順調ならそうですけど、早まることもありますから。道を歩いているときに始まって、血を出しながら歩くなんて真似だけは絶対やめてくださいよ」
 まあ、確かに、それは恥ずかしいな。
「あ、そうだ。ちょっと待ってください」
 小娘は、席を立って、「居間」の方に消えた。しばらくしてから、小娘が「ありました」と言いながら戻ってきた。手には、弁当箱みたいな大きさの箱を持っている。
「秘書の子たちの着替えと一緒にありました。前に、秘書の子のパンストを破いちゃって、予備のものに着替えた時に、一緒に見たような気がしたんですよ」
 どうやら、この箱の中にナプキンが入っているらしい。
「早速つけてみましょうか。さあ、脱いでください」
「脱いでって、ここでか?」
「ここでいいでしょ。鍵かかってるから、秘書の子は入ってきませんよ。――何、上を脱いでるんです。下だけでいいですよ。ひょっとして、旦那さま、あたしに抱いてほしいんですか? 旦那さまがどうしてもって言うのなら、構いませんけど」
 そんなこと一言も言ってない。
 小娘は、生理用品の箱から取り出したナプキンを広げて、おれのショーツに貼り付けた。
「取りあえず、応急措置です。これ、そんなに長くは持たない奴だから、もしも始まっちゃったら、なるべく早く替えてくださいね。あと、今日使っちゃった分は、旦那さまが自分で補充しておくんですよ。急に使いたくてなかったなんてことになったら、あの子達に怒られますからね」
 おれは、ナプキンを貼り付けたショーツを穿くが、股間がごわごわしていて、気になって仕方がない。
「なあ、物凄い違和感を感じるんだが」
「しょうがないですよ。そういうものなんですから。あ、違和感を感じるのはいいけど、それを周りに悟られないようにしてくださいね。あの子、ナプキンつけてるってわかって、恥ずかしい思いをするのは、旦那さまなんですからね」
 そもそも、おれは裾の短いワンピース姿。ちょっとしたことでパンツが見えそうだし、そうしたら、一発でわかっちゃうだろう、これ。
「ふーん、そっか。入れ替わってるから、あたし、これ1回パスできるんだ。ラッキー」
 おれの不安をよそに、小娘の方は、心底嬉しそうだ。そんな、嫌なものなのか? 生理って。
「奥様には連絡しておいてあげるから。何かあったら、奥様に訊いてくださいね」
 取りあえず、その日は何事もなかった。翌日は、妻に生理用のショーツを穿かされたが、この日も何もなし。おれに取って、はじめての生理が始まったのは、その次の日の朝のことだった。
「あ」
 それは、下半身のじゅくじゅくという違和感と共に始まった。
 下半身が重ったるくて、どんよりとした気分になる。
 妻の前で、汚れたナプキンの交換をやらされた。屈辱だが、自分で交換できないとなると、もっと屈辱的なことになるので、一度やってみないわけにはいかない。取りあえず自分で交換ができるようになってから、会社に行く。
「旦那さま、大丈夫ですか? 見るからにつらそうですけど」
 会社の社長室で小娘と一緒にいると、心配そうに声をかけられた。それに答えるのも億劫だ。なるほど、1回パスできて喜ぶ気持ちがよくわかる。
「今のところは、なんとかなりそうだけど、これが何日も続くのか?」
「ええっと、大体、2日目はもうちょっと酷くなるかな」
 冗談だろ。これ以上酷くなったら、まともに生活していられないぞ。
 はじめてなので、ナプキンから漏れていないかが気になって仕方がない。慣れないうちは、こまめに替えるように言われていたのでそうしていたのだが、じきにそんなことどうでもいいような気持ちになってきた。冗談抜きに、仕事なんてやってられない。
「取りあえず、昼休みは奥のベッドで寝てるから、午後の会議になったら、呼んでくれ」
 今日のランチはキャンセル。デザートどころではない。
 午後には、電機メーカーとの提携について、最終的な方針を決める社内会議があるので、それだけは出なければならない。
 2時間ほど寝て、ちょっとは楽になったが、鈍い痛みは続いている。
 会議の前に小娘に確認。当初の予定通りだから、あまり社長が喋ることはない。向こうの専務たちとの会合で合意したことを決定事項として伝えるだけだ。
 会議は無事終了して、電機メーカーに対して業務提携提案をするというわが社の方針が正式に決定した。
「すまん。今日は、これで帰るから」
 耐えられなくなって、会議が終わった4時には早退した。
 屋敷に帰ると、すぐに布団をかぶって寝てしまった。なかなか寝付けなかったが。
 小娘が言ったとおり、翌日はさらに酷かった。
「今日は、お休みにしたらいかがですか?」
 妻は言うが、今日は、午前中から大手自動車メーカーの取締役との会合がある。さすがに、これは小娘に事細かな指示を与えておかないとまずい。
「お薬は、駄目なんですよね」
 小娘から、生理痛用の薬は体質に合わないから飲まない方がいいと言われている。
「そうだ。昔は呪を麻酔代わりに使っていたという話をしたろう。あれをやってくれないか」
「ですが、あれは、頭がぼんやりしますよ」
「かまわん。試しにやってみてくれ」
 そう言って、妻に呪を施してもらう。こちらから言って、呪をかけてもらうなんてはじめてだ。
 途端にすっと痛みが引いていく。
「ああ。ちょっと楽になった」
 これなら何とかなりそうだ。確かに少し頭がぼんやりするが、このぐらいなら、大丈夫だろう。
 妻の呪のおかげで、何とか午前中を乗り切った。今日も、昼休みはベッドで寝て過ごす。
 午後には、起き出してきたが、相変わらず痛みが続いているし、ぼんやりする。
「旦那さま、昨日に輪をかけて酷そうですよ」
「お前、いつもこんなものなのか?」
「こんなものって、今、旦那さまがどんな感覚なのかわからないから、何とも言えないんですけど」
 そりゃそうだ。
「そうですね。お屋敷では、2日目は寝込むほどではないけど、お仕事は免除してもらってました。仕事にならないし、無理に何かやって、怪我でもしたら困るって」
 寝込んでない分、今のおれよりはマシだ。まあ、おれの方は慣れていない、というのもあるのだろう。もっとも、こんなことはこれ1回きり。これが最初で最後だから、慣れることなどないが。
 午後に電機メーカーとの提携についての社内会議がある。最終方針は昨日決めてしまったので、あとは細かいスケジュールや向こうに提出する資料の作成などの打ち合わせだけ。この後は、来週早々に向こうの臨時役員会で、こちらの要求をつきつけることになるから、これが最後の社内会議だ。議事自体は細かなことばかりなので、別に社長が出る必要もない会議だが、最後に社長として一言、何か言っておく必要がある。社長の仕事としては、この一言だけだ。取りあえず、おれが考えてきた台詞を小娘に憶えさせれば、おれがついていなくても、大丈夫だろう。
 ということで、おれは、この会議も欠席して、「寝室」のベッドで寝ていることにした。
 今思えば、この日、生理痛で起き上がれなかったことが、この後のおれの人生を変えていくことになったのだが、そのときのおれは、おれの女の体を苦しめる鈍い痛みのことしか考えられない状態だった。


 翌週。
 電機メーカーの臨時役員会に、おれたちは出席した。
 当然、向こうは全役員が顔を揃えている。総勢24人。先週の社内会議で聞いた限りでは、そのうち専務以下11人がおれの会社との提携に賛成している。IT企業派は8人いて、中立、というか、いまだに社長と共に現状維持派に属しているのが、社長を含めて5人いるらしい。この5人のうち、2人をこちら側に引き込んでしまえば、勝ちだ。
 今日は、あくまでこちら側の要求を突きつけるだけなので、今すぐに役員会の採決が取られるわけではない。最後まで気を緩めるわけにはいかないが、多数派工作は、こちらが有利な状況であることは確かだ。
 おれの会社からは、11人が出席した。社長(中身は小娘だが)と、重役陣から4人。各部署の部長が3人。あとは、秘書室から、秘書室長、副室長と小娘姿のおれが出席していた。
「さて、このたびは、弊社のために臨時役員会を開催していただいて、ありがとうございます」
 向こうの社長が、この臨時役員会の趣旨を簡単に説明した後、「おれ」の姿の小娘が、会社の代表として、発言の口火を切った。おれが指示したとおりの台詞を一字一句正確に発言する。小娘の姿のおれは、おれの会社に割り当てられた席の末席で、小娘の言葉を聞いていた。本来なら新米秘書などこの席に出られるわけはないのだが、社長の権限で、無理矢理小娘のおれの席を確保したのだった。当然、今日のおれは、席が与えられているだけで、発言の予定はない。
 次に、秘書室長が、現在のこちらの立場を説明する。秘書室長は、こちら側の進行役ということになっている。
「弊社および弊社の関連会社、弊社に対して委任状をいただいている法人および、個人の名簿ならびに保有株式数は、お手元の資料の通りとなっております」
 向こうの役員が配布された資料を見ている。中には資料を見て愕然としていた者もいた。まさかおれの会社がこれ程の株を集めているとは思っていなかったのだろう。呑気な奴らだ。
「この数字は、先週末時点のものです。資料にもありますが、合計いたしますと、総発行株式数に対する保有比率は10.24%となります」
 この数字を聞いて、向こうの役員の何人かに動揺の色が浮かんだ。
「なお、この比率は、次回の株主総会での役員改選におきまして、少なくとも2名の役員を選出できる比率となっております」
 ということは、現在いる24人の役員のうち、最低でも、2名は役員から漏れるわけだ。その者に取ってみれば、動揺するのも当然だろう。もちろん、おれの会社か、IT企業か、勝つ方の陣営に入れば、その地位は安泰となる。こちらは、その不幸な2名にならないように、早々に我々の陣営に駆け込んでくれることを期待しているわけだ。
 その後、こちらの総務担当重役から、この電機メーカーの経営状態の分析結果の報告があり、工場長から、おれの会社の生産管理システムの先進性とコストメリット、それをこの会社に適用した場合の効果予測が述べられた。
 このあたりは、言わずもがなのことだが、おれたちの大義名分がこの会社の業績改善である以上、現状がどれほど悪くて、おれの会社と提携すればどれほどよくなるかを明らかにするのは、必要な手続きだ。
 そういった説明が一通り終わった後、結論として、おれの会社との業務提携と、現社長の解任と専務の社長昇格という2つの提案が行なわれることになっている。
 これは、これまで一介の部品・機械メーカーに過ぎなかったおれの会社が、幅広い業種に及ぶ一大企業グループとなる第1歩だ。そんな重要な提案を、おれの口から述べるのではなく、小娘に任せなければならないこと、そして、おれは、小娘の姿をして、こんな末席で聞いているしかないというのは、釈然としないものがあった。
「それでは、弊社の代表取締役社長より、株主として、御社の経営に関するご提案をさせていただきたいと思います」
 秘書室長の言葉に促されて、「おれ」の姿をした小娘が立ち上がった。
「弊社からの提案は2つ」
 よく通る「おれ」の声で小娘が言った。
「第1に御社と弊社との業務提携の締結。弊社より派遣する役員および技術者の指導の下、御社の工場の生産システムを全面的に見直し、生産性および品質の向上、コストの削減を図る」
 小娘が、よどみなく、決められた台詞を吐いた。高卒の家政婦に取っては難解な言葉だと思うが、最近は、そんな言葉もすらすらと言えるようになっている。
 提案は2つと言ったが、今小娘が言ったことがおれの会社の主目的だ。向こうの役員のうち、おれの会社側の派閥に属する奴らが、小さくうなずくのが見えた。残りの1つは、ついでというか、役員たちがおれの会社に付くよう工作をしてくれたエロ専務に対する論功行賞だ。
「第2に」
 小娘が続ける。おれは、向こうのエロ専務の顔を見る。この後、奴は「おれ」から次期社長に指名されるのだ。きっと、奴に取っては、人生でもっとも晴れがましい瞬間の1つなのだろう。太って脂ぎった顔から、笑いがこぼれそうになっていた。
「経営陣の刷新。これまでの業績不振の責任を取って、現社長以下は退陣。代わって」
 エロ専務の顔がニヤリと笑った。
「不肖、このわたくしが新社長に就任。わたくしの陣頭指揮の下、業績の改善に向けて社内一丸となって邁進する。以上であります」
 な、なんだと?
 話が違うだろう。次期社長は、エロ専務だった筈だ。
 小娘の奴、こんな大事なところで、間違えやがった。
 相手側の席では、エロ専務が狐につままれたような顔をしている。それはそうだろう。自分が次期社長に指名されると思っていたら、「おれ」が自分でやると言い出したのだ。
(おい、今のは間違いだとすぐ訂正しろ)
 そう思って、うちの連中を見たが、特に誰も慌てた様子がない。まさか、今みたいな重大な言い間違いを誰も気付かなかったのか?
「それでは」
 秘書室長が立ち上がって言った。
「弊社の提案内容についての詳細につきましては、担当よりご説明させていただきます。まずは、お手元の資料をご覧ください」
 秘書室長は、平然と議事を進める。議場では、誰も声を上げずに、一斉に手元の資料をめくっている。
 そうだ。資料には、こちらの提案内容として、新たな組織案が載っている筈だ。それを見れば、今の小娘の発言がおかしかったことにみんな気付くだろう。
 おれは、目の前に置かれていた提案資料をめくる。
(そんな馬鹿な)
 新たな組織案の代表取締役社長の欄には、確かに、おれの名前があった。エロ専務の名前はどこにもない。向こうの人間のトップは副社長のポストで、現事業本部長――先日の会合で、エロ専務と一緒に来ていた男――になっていた。
 どういうことだ? 先日の役員会で、今回の提案は業務提携にとどめ、新社長には向こうの専務を推すということで最終決定としたのではなかったのか?
 これでは、まるで秘書室長が提案してきた案そのものではないか。
 おれは、議事を止めて、小娘の発言と提案資料の内容を訂正するために、立ち上がろうとした。だが、ほんの少し腰を浮かせたところで、思いとどまった。
 おれの会社の出席者たちも、提案資料をめくって見ていたからだ。その誰1人として、そこに書かれている内容に不審なものを見出してはいない。ということは、おれの会社の人間に取って、ここに書かれていること、小娘が言ったことは周知のことなのだ。
 だとしたら、新米秘書に過ぎない小娘の体のおれがそれに反対したところで、受け入れられる筈がない。
(まさか――)
 おれは、自分の顔から血の気が引いていくの感じた。
「あの――」
 おれは、不安を確かめるために、隣の席の副室長に小声で話し掛けた。
「この提案って、最終決定のときと違うのでは?」
「あ、そうか。あなたは知らなかったんだ。一旦、業務提携ってことで決定したけど、最終の社内会議で社長が方針を転換したの」
 やはり、そうだ。
 会社の方針が決定した翌日、この役員会に向けて、詳細なスケジュールなどを詰めるための最終の社内会議があった。会社の方針が決定した後の会議だったこともあり、生理痛に苦しんでいたおれは、重要度は低いと見て、欠席することにしたのだが、あの会議の中で、「社長」の姿をした小娘が、勝手に社内方針をひっくり返してしまったようだ。
 小娘の奴、どういうつもりだ。
 「おれ」の姿をしている以上、「社長」として振舞うのは仕方がない。「社長」の特権でおれの秘書たちを抱きまくるというのも、許せないが、まあ、それでも、これで業務に支障が出るわけではない。
 だが、会社の最重要課題に関しておれが下した判断を無視して、勝手に会社の方針を転換するなどということが許される筈もない。
 第一、こちらからの要求を業務提携にとどめて、現在の役員を、極力そのまま残すような提案にしたから、保守的な役員たちの支持を集めることができたのだ。それを反故にして、現経営陣の総入れ替えなどという革新的というか、革命的な提案をしようものなら、折角おれの会社を支持してくれていた役員たちも、IT企業派か現状維持派に寝返るに違いない。そもそも、彼らを取りまとめている派閥の領袖であるエロ専務を要職から外してしまっているのだから、専務派の支持はなくなったものと見ていい。つまりは、この提案は、受け入れられないということだ。
 おれは、できることなら、ここで小娘を引っ掴んででも、提案をやり直させたかったが、今のおれでは無理な話だ。実際問題、この提案は、「社長」の口から発せられ、提案資料にも明記された正式なものになってしまった。仮に、それを後日訂正したとしても、そんなコロコロ変わるようないい加減な提案をしてくる会社など、信頼度はゼロだ。そんな提案に賛成してくれるものはいないだろう。
(終わった――)
 大きな会議室の末席で、おれは、小娘が勝手に変更した提案を説明する部下たちの言葉を、ぼんやりと聞いているしかなかった。


「一体、どういうつもりだ?」
 電機メーカーの臨時役員会からの帰り道、おれは、社用車の運転席に座ってドアを閉めるなり、後部座席の小娘に食って掛かった。無論、他に同乗者はいない。おれの会社の残りの9人は、タクシーに分乗して帰ることになっている。
「おれは、この会社とは、業務提携で行くと決めた筈だぞ。それなのに、どういうわけで経営権の移譲なんて提案になっちまったんだ?」
 座席に余裕のある大きな自動車とはいえ、車内であれば、「おれ」の姿をした小娘も、後部座席から腕力に任せて運転席にいるおれを組み敷くなんて真似はできない。そんな安心感もあってか、おれは、いつもより強い口調で小娘に言い寄ることができていた。
「だって、旦那さま。最終的にはあの会社を手に入れるつもりだったんでしょ」
「当然だ」
「だったら、業務提携なんて言っていないで、今すぐ手に入れちゃえばいいんですよ」
「お前、このおれに対して、意見する気か? 経営に関してはお前はど素人だろうが。大体、経営権の移譲なんて提案を相手が飲む筈ないだろうが」
「でも、秘書室長に言われたんですよ。経営権の移譲を求めれば、相手は絶対呑むはずだって」
 そういうことか。おれは、秘書室長には必ずメールで報告しろと指示しておいたのだが、それ以外にも、彼女は小娘に直訴していたというわけだ。確かに、小娘は秘書室長のところに何度も泊まっているので、その機会はいくらでもあった。最近は、定時を過ぎると、小娘と秘書たちだけで残業していたので、おれの目の届かない時間もたっぷりとあったわけだ。
 なるほど。そこで、小娘は秘書室長にすっかり丸め込まれたというわけか。
「だって、あの子、言ってましたよ。ここで弱気になったら駄目だって。旦那さまはこれまで強気一辺倒で来たのが功を奏して今の地位まで駆け上ったのだから、ここで強気の姿勢を崩しちゃったら、却って周囲から見くびられてしまうって」
 秘書室長には、おれに対して何でも物申す権利を与えてきた。実際、仕事のことだけでなく、おれの性格にまで踏み込んだ諫言をされて、カチンときたことも幾度もあった。おれもこんな性格だから、言われれば言い返す。向こうも一歩も引かないので、大喧嘩になることもよくあった。だが、お互い言いたいことをすべて言ってしまうと、そこから先は冷静になって、自分を見つめ直すいい機会になったものだ。
 だが、こうして、秘書室長から直接諫言をされるのではなく、小娘を通して聞かされるというのは、まるで、小娘に馬鹿にされているようで、腹立たしさばかりが残る。いつものように反論しようにも、小娘相手に言っても仕方がない。
「いつまでも、強気一辺倒なんて、できるわけがないだろう。それじゃ自転車操業と同じだ」
 小娘相手に言っても仕方がないと頭ではわかっていたが、反論せずにはいられなかった。
「でも、こんなチャンスはそうないんですよ。一気に家電メーカーまで取ってやろうという気はないんですか」
 確かに、これまでのおれは強気一辺倒でここまで会社をでかくしてきた男だ。一か八かの賭けに出たことも何度もあるし、その中には、明らかにこちらに分の悪い勝負もあった。今のおれの地位は、そういう勝負にことごとく勝ってきたから得られたものだ。そうでなくては、たった10年ちょっとで小さな町工場が一部上場企業にまで急成長できる筈がない。どこかで1度でも勝負に負けたらおれはすべてを失っていただろうし、勝負を避けていたら、いまだにおれは、しがない町工場の主で、元請けの顔色を見ながら資金繰りに悩む毎日だっただろう。
 だが、そんな倍々ゲームのギャンブルのような戦略がいつまでも通用するわけがない。それに、ここまで会社が大きくなってしまったら、持てるすべてを賭けての勝負など、馬鹿げている。どこかでこれまでの戦略を見直す必要があるのだが、これまで戦ってきた自動車部品の業界から電機というまったく別の業種に進出しようという今回は、そのいい機会なのだ。
 おれは、腹の中にイライラを溜め込んだまま、車を動かした。乱暴にアクセルを踏んだので、道路に出るときに歩行者とぶつかりそうになった。
「ちょっと、何やってるんですか。気をつけて運転してくださいよ。この大事なときに人身事故なんて起こされたら、会社がどうなるか、わかってるんですか?」
「うるさい!」
 おれは、小娘に怒鳴り返す。ただでさえ小娘の小さな体なのだから、慎重に運転しなければいけないということはわかっているのだが、はらわたが煮えくり返っていてそれどころではない。
「ほら、道を間違えた。会社は、さっきのところを左でしょ」
「間違えていない。これから屋敷に帰る」
「はあ? 何言ってるんですか。この後は会社に帰って、役員たちと会議でしょ」
「待たせておけ」
「待たせておけって――」
「お前と話していても埒が明かん。茶番は終わりだ。今すぐ屋敷に帰って、妻に体を戻してもらう」
「奥様は、まだ戻すなんて言ってませんよ」
「社長としての仕事を放棄したら、戻す、という話だったろう」
「あたしは、放棄なんてしてません」
「おれが決めたことを勝手にひっくり返してもいいと思っているのか?」
「あれは、社長として、最善の判断をしただけです」
「判断を下すのは、おれだ。お前の仕事はおれの判断に従って、『社長のふり』をすることだけだ」
「でも、旦那さまが間違った判断を下すのを、黙って見ているわけにはいきません」
「間違っているだと?」
「ええ。そうですよ。役員たちもみんな、あたしの判断を支持してくれましたよ」
「あいつらは、社長が黒と言えば黒と言うに決まっているだろう」
「社長のあたしが黒だと言ったんだから、黒でいいじゃないですか」
「誰が社長だ」
「危ない、信号、赤!」
 おれは、慌ててブレーキを踏む。車は、タイヤを鳴らして急停止した。
「今は、運転に集中しましょ。死亡事故起こして刑務所に行くような体に戻るなんて嫌ですからね。そんなことしたら、一生この体のままでいるように奥様にお願いしますから。――ほら、青ですよ。気をつけて発進してください。役員たちとの会合は延期してあげますから」
 何が、「延期してあげます」だ。恩着せがましく言いやがって。おれが「待たせておけ」と命令したのだから、おとなしくそれに従うのは当然のことだろうが。
 怒鳴り返してやりたかったが、さすがに2度も事故を起こしかけていては慎重に運転せざるを得ない。
 口を開いたら言い争いになりそうなので、おれは、ただひたすら黙ってハンドルを握り続けた。小娘の方は、秘書に電話して、会議の予定の変更を指示している。こういうやりとりも、最初のうちは、おれが1字1句教えてやらないとできなかったのだが、今では当たり前のようにてきぱきとこなしている。おれと同じような横柄な態度で喋るさまは、「おれ」そのものだ。まさか、その中身が18歳の少女だとは誰も思わないだろう。
 小娘は、秘書への電話が終わると、妻に電話をして、これから屋敷に戻る旨を伝えた。
「奥様、お屋敷にいるそうですよ」
 そりゃ、いるだろう。妻は、普段から特に出かけるような用事もないので、余程のことがない限り屋敷にいるに決まっている。
「家政婦さんも帰すって言ってましたから、いつでも戻ってきてOKですって」
 それはありがたい。家政婦の目があると、使用人として振舞わされるが、その心配もないわけだ。
 屋敷に着くと、リビングで妻が待っていた。おれが妻の向かいに座り、小娘は妻の横の席となった。
「昼間からどうしたというのです? お仕事がまだおありなのではないのですか?」
 相変わらず、妻は静かに問い掛けた。そのあまりに落ち着いた言葉に、ここへ来るときにおれの体を満たしていた怒りを、おれは一瞬忘れそうになる。
「と、とにかく」
 おれは、萎えてしまいそうな怒りを奮い立たせて言った。
「もうこんなことは終わりにしてくれ。今のままでは、おれの会社が潰れてしまう」
 おれは、今回のことを妻に一通り説明した。
 妻は、おれの言葉に一言も口を挟まずに黙って聞いていたが、おれが喋り終わると、小娘に問いただした。
「今の話に間違いはありませんね」
 小娘は「はい」とうなずく。「おれ」の姿をしてはいるものの、小娘は今でも妻の「侍女」なのだ。おれの言うことはちっともきかなくなったが、妻の言葉には逆らえない。この場では、体は「おれ」の姿をした小娘が一番大きいが、妻の横だと、なぜか小さく見えるから不思議だ。
「なぜ、業務提携の方針を勝手に変えてしまったのですか?」
 妻が小娘に問いただす。
「だって、その方が会社のためになると思ったから」
「素人が勝手な判断をするんじゃない!」
 おれは怒鳴ったが、妻の目で制せられて、その後を続けることができなかった。
 おれが黙らされたのを見届けてから、小娘が続ける。
「この話は、旦那さまの意見も聞いたし、秘書室長の意見も聞いたんです。どっちの意見も確かに一理あると思ったんですよ」
 こいつ、おれと秘書室長の意見を比較して決めたとでも言うのか。何様のつもりだ。
「一番気になったのは、旦那さまの案だと、今の専務が社長に昇格するってところですよ。この間の会合で1度会いましたけど、あの専務は、全然信用できません。今は、あたしたちを味方にするためにこちらに甘い顔を見せてるけど、いざ自分が社長になったら、絶対あたしたちの言うことを聞かなくなりますよ。あんな奴を社長に据えるぐらいなら、業務提携なんて、しないほうがマシです」
「ちょっと待て。なんでそこまで言い切れるんだ? 1度しか会ってないのに」
「1度会えば充分ですよ、あんな奴。ああ、旦那さまにベタベタ触っていたときの顔、思い出しただけでも、腹が立ってきます。――まさか、旦那さま、あのエロ専務に触られて、感じてたんじゃないでしょうね」
「そんなわけあるか」
 おれだって、あのときの感触を思い出すと、おぞましさで身震いする。だが、それと仕事の話は別だろう。
「別じゃないですよ。あの専務は、信用できないから、あいつを社長にするのが前提の業務提携なんて、しない方がいいって言ってるんです」
「なるほど。わかりました」
 妻が、おれと小娘の言い合いを終わらせた。
「会社の重要な案件について、勝手な判断を下したこと。更に、旦那さまにそのこと知らせなかったのは、あなたの明らかな誤りです」
 妻は、そう小娘に言い渡した。
 それみたことか。小娘の顔が不満げに歪む。
「で、でも、あたしは、その方が会社のためになると思って……」
「その判断が正しいかどうかを言っているのではありません。よいですか。判断というのもは、その判断に対して責任ある者が行なうものなのです。あなたは、今回、あなたが行なった提案を先方が受ける筈だと言いましたが、もし、そうならなかった場合、あなたはどんな風に責任を取るというのですか?」
「――」
「この提案が失敗に終わったら、会社はいくばくかの損害を蒙るのでございましょう?」
 妻は、そう言って、おれの顔を見る。
「株を買い集めるのに、莫大な金を使っているからな」
「それは、この娘に、取り返せるような損失ですか?」
「一生働いても、返し切れるような額じゃないぞ。株の購入代金だけでも大変な損害だが、他業種へ進出するというおれの会社の目標がこれで一頓挫することになるから、その時間的損失の方が痛い」
「だそうですよ。あなたは、自分で責任を取れないようなことを勝手にやってしまったのです。そのことは理解しましたね」
「は、はい」
 妻に責められて、小娘はしゅんとうなだれる。小娘がやりこめられるのを見るのは痛快だが、それが「おれ」の姿だというのは、複雑な気分になる。
「まあ、よいでしょう。その場合の責任の取り方については、そのときになったら、考えることにいたしましょう」
 妻は、さらりと言ったが、実際にどういうことを考えているのか、想像も付かなかった。
「さて、この後は、現実的な話をしなければなりません。――あなたさま」
 妻は、今度はおれに顔を向ける。
「この娘が勝手に行なった提案を取り消して、あなたさまの本来の提案に差し替えることは可能なのですか?」
「そんなこと、無理に決まってる。もちろん今日の提案をすべて破棄して、新しい提案をし直すこと自体は可能だが、言うことがコロコロ変わるような会社の提案なんて、まともに取り上げられる筈がない。それに、今日の提案で、向こうの専務を完全に怒らせただろうから、今更関係の修復は、不可能だ」
「ということは、わたくしたちとしては、不本意ながら、今日の提案を相手が受け入れてくれることを祈るしかない、ということですか」
 そういうことになる。とても、あんな提案を向こうが呑んでくれるとは思えないが。
 まるで、番号を間違えて馬券を買ってしまって、来ないだろうと思っている馬を応援しなきゃならないような事態だ。
「当然のことですが」
 今度は、妻は小娘に向かって言った。
「今回の提案を通すために、会社として、何らかの動きをしているわけでしょう?」
「あ、それなら、秘書室長がやっています」
 小娘が得意げに言う。
 元々は、秘書室長から出た案なので、彼女を中心として、全社を挙げて動いているということだ。どんな手を打っているのかと小娘に訊いたら、「あの子に全部任せてあるから知らない」と言いやがった。丸投げかよ。
「こうなってしまった以上は、経営移譲の線で動いている社内の方々には、このままの方針で動いていただく以外にないのではありませんか?」
 確かに妻の言うことには一理ある。ここへ来て、一度出した提案の内容を変更するとなれば、社内の混乱は避けられないし、社員たちのモチベーションを考えてもできることではない。だったら、今現在、経営移譲の線で動いている人間には、その戦で動き続けてもったほうがいい。成功する確率は低いかもしれないが、ここでやめてしまったら、成功の確率はゼロになってしまう。
「では、当面、表向きは、このままの方針でいきましょう」
「表向き?」
「あくまで、表向きです。表向きは、社長以下、一丸となって、この提案を通すために努力してもらいます。ただし、こちらとしては、最悪のこと――こちらの提案を拒否された場合のことも考えておかなくてはなりません。その場合、こちらとしてはどう動くべきなのか。どうすれば、こちらの損失を最小限に抑えられるか。それを考えておかなければならないと思うのです」
「そうだな」
「もちろん、あなたさまには、既にいくつかのお考えがおありなのでしょう?」
 妻は、そう言って、おれに向かって微笑みかけた。
「もちろんだ」
 当然、そのぐらいのことは考えてある。
「では、このような方針でまいりましょう。表向きの仕事の方は、もう動き出しているのですから、『社長』はお飾りでも進んでいくでしょう。ですから、あなたさまの体には、もう少し、この娘を入れておきます。重要なのは、もう1つの仕事の方。こちらは、あなたさまが直接指揮を執った方がよろしいでしょう」
「だが、こんな小娘の体では――」
 この体では、部下たちに指示を出すことすらできない。
「かと言って、『社長』の姿で、あまりこちらの方に関わるわけにもいかないでしょう。『社長』には、あくまで表向きの仕事をしていただかなければなりません。ですから、もうひとつの仕事の方は、別の体の方が何かと便利ではないかと思うのです」
「結局、おれにこの娘のままでいろというのか?」
「まだ、あれから1ヶ月は経っていないことですし」
 おれは、「はあ」とため息をつく。
「ここは、誰か、あなたさまの仕事をする者を選んで、あなたさまが今のその姿で、『社長』からの連絡係のような顔をして、直接部下たちを動かした方が得策だと存じます。もちろん、この間、この娘が会社の重要な事柄について勝手な判断を下すことは、固く禁じます。いいですね」
 結局、おれと小娘は、もう少しの間、今のまま――入れ替わったままの体で過ごすことになった。
 所詮、妻の呪の力がなければ、元の体に戻ることはできないのだ。おれは、妻の決定に従うしかなかった。
「それで、先方からの返事はいついただけるのですか?」
「1週間後だ。来週の月曜日にはおれの会社に諾否の回答が来るはずだ。おそらく、拒否だろうがな」
「ええっ、受け入れるに決まってるじゃないですか」
「うるさい、黙ってろ」
 おれは、能天気にそう言っている小娘を黙らせた。
「来週の月曜日ということは、まだ、入れ替わって1ヶ月経たない頃ですね」
 そういうことになるか。
「本当に戻してくれるんだろうな」
 おれは、不安になって、妻にそう訊いてみる。
「以前にお約束した通り、1ヶ月経てば、お戻ししたします。もちろん、双方ともこのままでいい、と言うのであれば、そのままにしておきますが」
「あたしは、それでもいいですよ」
 小娘の言葉は、無視しよう。
「それでは」
 妻が、おれと小娘の顔を見て、静かに言った。
「1ヶ月というと、再来週の頭あたりでしょうか。具体的な日付は若干前後するかもしれませんが、そのあたりでお2人の体を元に戻すことを、改めてお約束いたしましょう」

テーマ : *自作小説*《SF,ファンタジー》 - ジャンル : 小説・文学

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